創作作品

小説◇「筆談ノート」  文=槇野ひよし

野寺清美が婚約したという報せにぼくはショックを受けた。頭の中に「運命」のフレーズが重々しく何度も鳴り響いた。いつかはそういう日が来ると考えたことはあるが、まさか実際に訪れるとは思わなかった。仮にそんな日が来るとしても、それはぼくが作家としてデビューし、何度もスポットライトを浴び、確固たる地位を築いてからの話だと思った。

その件について清美から連絡が入るのをぼくは待っていた。ぼくから連絡することはない。大学時代からかれこれ十年の付き合いになるが、ぼくのほうから連絡を取ったことは一度もない。彼女からのアクションがない限り、ぼくらの間には何も事が生じない間柄なのだ。

連絡はいつまで経っても来なかった。信じられなかった。いったい清美に何が起きたのだろうかと、ぼくはいささか心配になった。大事な話は真っ先にぼくにしたがる娘だからだ――二十九歳の清美を娘と呼ぶのは無理があるかもしれない。

彼女はぼくに対して色々と釈明したいことがあるはずだ。

なぜ他の男と結婚する気になったのか?

――ぼくを振り向かせることを諦めたのだろう。

それについて一言も相談しなかったのか?

――会えば、心がぐらつくと考えたのだろう。

ぼくとの関係をどうするつもりなのか?

――陰から応援するつもりなのだろう。

いまごろ婚約したことを後悔し、己の浅はかさを嘆いているに違いない。きっとそうだ。うつむき、目を細め、じっと唇を噛んでいる姿が目に浮かんだ。ぼくに叱られると、決まってその表情になり、ぼくが優しい言葉をかけるまで、何時間でもそうしているのだった。

清美はぼくに婚約の報告をするのが恐ろしいのだ。そんなことを打ち明け、ぼくに見限られでもしたらどうしようと震えているに違いない。ぼくは今度ばかりは自分からメールを送ってあげようと思った。ぼくが清美にしてあげる最大のプレゼントになると思った。

『聞いたよ、婚約したそうだね。おめでとう。祝福するよ。幸せになってくれよ。では』

送信した。即座に感激の返信が来るはずだった。なんでも簡単に感動する娘なのだ。ぼくのすることなら、どんなささいなことでも、異常なくらい喜ぶ娘なのだ。

携帯を睨みながら煙草を吹かしていると、すぐに着信があった。でもCメールだった。清美ならEメールのはずだった。メールを開くと、菜穂子からだった。 『今晩、大学時代の友達と会うから遅くなるよ』という報告だった。そういえばそんな話を聞いていたような気がした。ぼくは『了解』と即答した。もう職場に戻らなくてはならない時間だったので、煙草を踏み消し、エレベーターホールの灰皿に吸殻を捨て、屋上を後にした。

野寺清美とぼくの関係は出会った当初からほぼ完璧だったといえよう。彼女はぼくのことを崇拝していたし、ぼくは彼女のことを使える人間だと思った。使えるなんていうと聞こえが悪いかもしれないけれど、そんなことはなく、当時、ぼくの周りは使えない人間で溢れかえっていた。そういう意味で彼女は貴重な人材だった。

清美はデブでブスで地味な娘だった。体重は明らかにぼくよりも重たかったし、服装もださいし、それに髪の毛から変な匂いをさせていた。生活費を切り詰めるためにシャンプーを自作していると聞き、大いに驚かされた。清美に直接尋ねると、顔を赤らめ、「そんなわけありません」と否定したが、「大学生なんだから、色々と気をつけたほうがいいぜ」とやんわり告げると、「はい。以後気をつけます」とあっさり認めていた。

清美の目はいつだってぼくのことを映していた。彼女にとってぼくはすでにスターだったのだ。ぼくはアカシア大学の文学部において、教授の語り草になるくらい優秀な学生だった。大学生活の四年間はぼくを中心に地球が回っていた。 モデルのようにきれいな女子からもラブラブの目で見られていたのだから、田舎者の野寺清美がぼくのスマートさに夢中にならないわけがなかった。清美はぼくのことを白馬に乗った王子さまのように扱った。ぼくの言葉を一言も聞き漏らさないように常に聞き耳を立てていた。きっとぼくが許せば二十四時間一緒に過ごしただろう。

ぼくらの関係は人目を引いたはずだ。誰が主人で誰が家来なのか一目瞭然だったからだ。芝居の配役のようにはっきりとしていた。清美は世話役に従事し、影のようにぴたりとぼくにくっついて、そのポジションを誰にも渡そうとしなかった。

大学を卒業しても、清美はその役を降りようとしなかった。なにかと理由をつけては現れて、ぼくの身の周りの世話をしたがった。そしてぼくに向かって作家になった暁にはきっとマネージャーにしてくださいと懇願するようになった。 「ああ、きっとそうしてやる」と優しく言ってやると、顔をくしゃくしゃにして、下を向き、嬉しそうにもじもじとしていた。

ぼくは屋上に出ると、駐車スペースの屋根の下にしゃがんで、携帯を開いた。さっきポケットの中で着信を報せるバイブを感じたので、清美からだと思い、とりあえず抜けてきたのだ。屋上は無人だった。給水塔の屋根から一羽のかもめが黒い目でこちらを睨んでいるだけだった。

メールはEメールだった。清美からだった。ぼくは煙草を取り出し、くわえ、火をつけた。深く深く吸い込んでからメールを読んだ。

『お久しぶりです。そうなんです。なんとか婚約という形まで辿り着け、ほっとしています。八島さんは元気にされていますか?菜穂子さんは留学が決まったのかしら?そろそろ九号の発刊じゃないんですか?八島さんの作品、今年も楽しみです。では!!!』

ぼくは目を疑った。メールを何度も読み返した。けれど疑念は解消されるどころか、増すばかりだった。本当に清美が書いたメールだろうか?

そこには『八島さんからメールを頂けるなんて感激です』ということも『婚約の件、打ち明けられなくてすみませんでした』ということも『わたしの大切な人はいまも変りません』ということも『八島さんとは永遠に繋がっていたいのです』ということも、何一つ書かれていなかった。二人の基盤となるものがごっそり抜け落ちているのだ。ぼくに対する尊敬の念や、憧れの気持ちは何処にも見当たらなかった。余白に隠れてさえいなかった。

いったい何が起きたのだろう?とぼくは思った。婚約者のことはともかくとして、なぜぼくにこんな醒めた態度をとる必要があるのか、さっぱり分からなかった。何かそのきっかけとなることがあるはずだった。清美は理由もなしに心変りするような女ではない。

もう職場に戻らないとまずい状況だったが、ぼくはメールを打った。歩きながら文面を確認し、送信した。所属している同人誌の編集長宛に送った。配本前の九号をいますぐ渡して欲しいと伝えるためだった。

次の日、駅前にある居酒屋の個室を予約し、清美と十九時半に待ち合わせた。ぼくは清美を喜ばせるために、わざと遅れて行くことを忘れなかった。清美はぼくに待たされるのが好きなのだ。学生時代、本命とのデートが長引いて清美を五時間待たせたことがあった。

「いやあ、すっかり遅くなって」と十九歳のぼくは言った。「待っただろ?」 「いいんです」と十九歳の清美は首を振った。「八島さんがいつ現れるかな?いつ現れるかな?とドキドキしながら入り口を見つめている時間が幸せなんです。お陰で今日は五時間も幸せでした」

流石だなとその時ぼくは感心した。立場をわきまえた清美の心構えに深く感動した。ぼくは清美にハンバーグセットを奢ってもらい、代わりに、とっておきの小説のアイディアを話してあげることにした。清美は目を輝かせながら、ぼくの話に聞き入っていた。

あれから十年も経ったんだな、とエレベーターを待ちながら思った。エレベーターの扉には少し丸顔になったぼくの姿が薄っすらと映りこんでいた。足元には紙袋があった。中に茶色い包みが入っている。

レジで八島と名乗ると店員が「お連れ様はもうご案内しております。こちらへどうぞ」と奥の個室に向かって歩き出した。その後をついて行くと、水曜日の二十時前だというのにもう完全に出来上がっているおっさん達の姿が目に入った。どいつもこいつも顔を真っ赤に火照らせ、泣きながら腹を抱えていた。相当面白いことが起きたに違いなかったが、答えを見つけ出す前に予約した部屋に着いた。

障子を開けると清美の姿はなく、代わりに見知らぬ男が額に汗を光らせて坐っていた。ぼくと目が合うと引きつった笑みを向けてきた。禿げてはいるが、ぼくより若いようだった。目はつぶらで、赤ん坊のようにきらきらとしていた。 全く予想していない展開だった。ぼくは驚いて紙袋を落とすところだった。清美ではなく代わりに男が坐っているということは、理由は一つしか考えられなかった。このつぶらな禿げが婚約相手なのだ。

「あの」とぼくは言った。「もしや野寺清美さんと婚約なさった――」

「そうです」と男は即答した。「あー紛らわしくてすいません。いまのそうは返事じゃなくて名前なんです。そうつねおと申します」

背広のポケットから皺だらけの名刺を出して、ぼくに寄越した。見ると『宗常雄』とあり、ぼくの知らない印刷会社の係長だった。宗常雄にぼくの名刺を渡すと、野球カードのようにしげしげと眺め、ぼくの役職が平社員であることを確認し、深く頷いていた。いったい何が腑に落ちたというのだろう?

不思議なくらいぼくと宗常雄は意気投合した。一時間も経たないうちに、まるでさっきのおっさん達のように腹を抱えて笑いあった。初対面の同性と楽しく打ち解けている自分の姿にぼくは驚いていた。

「八島さん、やっぱり面白い人ですね。清美から聞いていた通りです」と宗常雄は言った。「それにお若い。わたしより二つ上だとは驚きです」

「いいや。若いんじゃなくて――」と猪口を空けてぼくは言った。

「幼いだけなんです。だから宗さんのようにしっかりした人を前にすると自分のことが恥ずかしくなるんですよ」

宗常雄が酒を注いでくれた。宗常雄は徳利を静かに傾けながら一滴も溢さないように注意を払っていた。清美も大人しい注ぎ方をする。清美と宗常雄が穏やかに注ぎ合う光景がぼんやりと浮かんだ。

「ははは」と宗常雄は空いている手で頭頂部を撫で回しながら笑った。「しっかりしているように見えるのはこのせいですな。はははは。いやあ、若禿げの家系に生まれてしまうと誰でもこうなるんですよ」

宗常雄は明るくて気さくな人間だった。予備校の三番目に人気のある講師のような雰囲気だった。ぼくも明るく振舞った。清美のことを訊くのが重たく感じられた。

「まだ結婚しないんですか?」と宗常雄は呼び出しボタンを押しながら訊いた。「ああ、そうか、モテるから一人に決められないんでしょう?いま同棲している方がもうすぐアメリカに留学されると聞きましたが、心配じゃないんですか?行く前に約束を交わしたりしないんですか?」

「ああ、菜穂子のことですね」とぼくはイカのルイベの残骸に冷えたポテトフライを絡ませながら返答した。「いいんです。最初から期間を決めて付き合ったんです。だから後はお互いフリーですよ」

障子が薄く開いた。未成年にしか見えない店員が注文を尋ねた。宗常雄は酒のお代わりとアイスクリームを頼んだ。ぼくは自分の分のアイスは要らないと首を振って店員に伝えた。

「でも気になるでしょう?」と宗常雄は言った。「同棲していた相手のことをそう簡単に忘れるなんて出来ないと思うなあ。わたしなら無理です。きっと追いかけていくか、ひき止めようとじたばたするでしょうね」

「じたばた」とぼくは口に出して言ってみた。「じたばたするくらい菜穂子のことを好きではなかったということになりますね。もしそう思わせる相手が現れたら、ぼくだってじたばたしますよ。早くじたばたしたいくらいです」

「現れたら、じたばたする気ですか?」と宗常雄が身を乗り出した。

「もちろん」とぼくは言った。「じたばたする人に巡り会うためにぼくはこうしているんだと思う。ぼくは自意識過剰なところがあるんです。だからなかなかそういうことは出来ないけれど」

障子が開き、アイスと酒が来た。宗常雄は徳利を持ち上げ、酒を注いでくれた。やや乱暴な注ぎ方だった。酔いが回ってきたのかもしれない。

「でもそんな機会がもし訪れたら、逃しませんよ」とぼくは言った。「自分にとって本当に必要な相手はその人だったということだからね。代わりのきかない無二の存在なんだ。たとえ空港で土下座することになってもひき止めるでしょうね」

宗常雄はアイスに夢中だった。ぼくの話は聞き流しているみたいだった。ぼくは手酌で酒を飲んだ。幾らでも飲めそうな気がした。

「すみません」と言って宗常雄は立ち上がった。アイスはきれいに平らげてあった。「トイレに行って来ます。今夜は清美が来れなくて申し訳ありませんでしたね。お陰でわたしは楽しい時間を過ごさせてもらいましたが――失礼」 一人になり、急に煙草が吸いたくなった。宗常雄は清美と付き合い始めてから禁煙したと言っていた。ぼくは煙草を吹かし、携帯を開いた。その動作はセットになっていて、別に携帯を使う用はなかった。

どうして清美が来なかったのか?換気扇に向かって煙りを吐き出しながらぼくは考えていた。少しずつ酔いが醒めていくのを感じていた。前代未聞のことだった。ぼくは清美にすっぽかされたのだ。

ぼくが呼び出せば清美は何時でもすぐに飛んで来る娘だった。例外は一度しかない。たった一度だけ、インフルエンザに罹って来れなかったことがあった。快復した清美はせっかくの誘いを断ったことが悔しくて泣き明かしたのだとぼくに打ち明けた。

「もう治ったのか?」とぼくは訊いた。「最近は特効薬があるみたいだけど、それを飲んだのか?インフルエンザはきちんと治さないと周りに迷惑をかけるんだぞ。大丈夫なのか?」

「はい」と清美は満面の笑みで答えた。「お陰様でもうすっかり治りました。検査も受けてきましたから安心してください。ところで昨日は何をされていたんですか?」

清美は嘘をついていた。検査代を浮かすために、周囲には治ったと言い張ったのだ。清美の撒いたウイルスのお陰で大学は緊急閉鎖されることになった。

「この度はすみませんでした」と清美はぼくの枕元で謝罪した。「深く反省しています。お詫びにわたしが付きっ切りで八島さんの看病をしますから。安心してください」

ぼくは怒る気にもならなくて笑い出した。看病が出来ると喜んでいる率直さに呆れてしまった。清美もつられて笑った。ぼくが笑っているのがただ嬉しかったのだろう。

宗常雄が戻ってくるのと、ぼくがメールを打ち終わるのがほぼ同時だった。ぼくはテーブルの下で送信ボタンを押した。宗常雄はさっぱりした顔をしていた。まるで酔っていないように見えた。

『本はどうしたらいい?婚約者に預けていいのか?』

そう書いて清美に送った。本当は来れなかった理由を訊きたかったのだが、それはできなかった。それをぼくから尋ねると二人の関係に歪みが生じてしまうからだ。ぼくは常に超然としていなくてはならないのだ。

「八島さん」と宗常雄は言った。「お時間のほうは大丈夫なんですか?

そろそろ地下鉄がなくなりますよ。わたしは近所だからまだまだ構わないんですが――」

その時テーブルの下で携帯が震えた。清美からだとすぐ分かった。間違いない。確かめなくても分かることだ。

「時間なら大丈夫です」と言ってぼくは立ち上がった。

「ちょっとトイレに。ぼくのことならご心配なく。歩いて帰れる距離ですから」

ぼくは和式便器の前に立つと、携帯を開いた。Eメールが一通届いている。OKキーを押す。

『突然行けなくなって申し訳ありません。常雄さんと一緒にわたしのアパートへ来てください。お待ちしています』

ぼくの質問に対する返事はなかった。同人誌について一切触れていないことが不思議だった。そもそも同人誌が完成したので売ってあげるという前提で、ぼくはここにいるのだった。その大前提がすっかり取り払われているような気がした。

携帯を閉じた。ぼくには返信できることがもうなかった。あとは、清美の願いをきいてやるだけだ。

ぼくと宗常雄はタクシーの後部座席に並び、黙って揺られていた。二人とも終始無言だった。宗常雄はまるでぼくなど存在しないかのように窓の外を眺めていた。時折低い鼻唄が洩れ、耳に届いた。

ぼくは紙袋を膝に抱えていた。まるでそれが無いと落ち着かないとでもいうように、両手でしっかりと掴んでいた。宗常雄の目にはその紙袋が一切映らないようだった。それが彼に与えられた配役なのだと思った。

そしていったいぼくはいま何をしているのだろうと思った。見知らぬ男とタクシーに同乗し、夜の街を走っている。ぼくはそうまでして清美の本心を知りたいのだろうか?この状況をもたらしたのが清美の意思ならば、いったいこれ以上の何を自分は知りたがっているのだろう?

「八島さん」と宗常雄が急に話しかけた。「清美のアパートに行ったことありますか?あるんでしょうね?あなたのことだから」

ぼくは答えなかった。答える必要がないと思った。ぼくは無性に煙草が吸いたくなった。窓を薄く開け、冷たい外気をたっぷり吸い込んだ。

清美はぼくの下で泣き出した。両手で顔を覆い、肩を震わせながら泣いていた。ぼくは横に転がって、天井を眺めた。煙草と灰皿を引き寄せ、一服した。

「悪かったな」とぼくは言った。「きっと小説のことを考えすぎて、頭がおかしくなっているんだろう。たまにこういうことが起きるんだ。だから気にするなよ」

清美は泣きながら頷いた。小さな声で、わたしが悪いんですと言った。ぼくは何て答えたらいいのか分からなかった。煙草をくわえたままじっとしていた。

「わたしにもっと魅力があれば」と清美は言った。「魅力があれば、最後まで出来たと思います。そうならなかったのは、だから、わたしのせいなんです。ごめんなさい」

清美は枕に顔を押し当てて泣いた。清美の広い背中が月明かりを浴びて青白く光っていた。ぼくは手を伸ばして清美の肌に触れる気にならなかった。早く服を着て欲しいと思った。

こうなることは最初から分かっていたはずだった。なのにうっかり手をだしてしまったことを悔やんだ。情にほだされたのだ。何とかできると思い込んでしまったのだ。

その日は清美の二十歳の誕生日だった。ぼくは清美から是非一緒に祝ってくださいと頼まれた。何も用事がなかったので了承してやった。プレゼントなんて要りませんからと清美は言ったが、アパートに行く前に近くのコンビニでケーキを買うことにした。

チョコレートケーキと一緒に安い赤ワインとポテトチップスをかごに入れた。他に必要なものがあるか考えた。ふと生理用品コーナーで目が止まった。よくよく考えてからコンドームを手に取った。

ぼくはコンビニを出ると、坂道を見上げた。清美はこの長い坂を上りきったところにあるアパートを借りていた。家賃が安くて見晴らしがいい、というのが理由だった。清美の住むアパートの赤い屋根がかろうじて見えた。

清美はぼくが本当に祝いに来てくれるとは思っていなかった。だから泣き出した。訪問しただけで女の子から感激されたのは初めての経験だった。どうしていいか分からなかった。

「泣くなよ」とぼくは言った。「こんなんで泣いてたら、きりがないだろ。それにどうしたらいいのか分からなくなるから、よしてくれ。帰りたくなる」

「分かりました」と言って清美はかぶりを振った。「もう泣きません。でも坂道が急だから途中で嫌になってしまうんじゃないかとか色々考えていたら、つい不安になって。でも良かった」

清美が食事の用意をしている間、ぼくはワインのコルクを抜くのに手間取っていた。コルク抜きがないので、フォークを突き刺して無理矢理こじ開けた。コルクは粉々に砕けて、大半が瓶の中に残った。コルクの浮いたワインを清美は美味しいと言って笑った。コンドームはぼくの上着の内ポケットの中だった。

ぼくが寝た女の子たちとはまるで別の生き物のようだと思った。清美の肉体は 頑丈で、重苦しく、大雑把だった。ぼくの欲するものを何ひとつ持っていなかった。性的魅力を見つけることはぼくには不可能だと思えた。

あくる日、清美は駅の改札でぼくのことを待っていた。いつもより大人っぽい服装をしていた。ぼくを見てもにこりともせず、無表情だった。香水の匂いが鼻についた。

「諦めていた分、辛かったです」と清美は言った。「絶対に起こらないと諦めていたことが現実になって、夢を見ているような気分でした。でもやっぱりそれが無理なんだと実際に知らされることは、想像していたよりずっと辛くて悲しいことでした。だからもうわたしにあんなことをしないでください」

「分かった」とぼくは言った。「もうしない。約束する。もう二度とおまえにあんなことはしない」

清美はゆっくりと頷いた。淡く彩られた唇が微かに震えているように思えた。何て言葉をかけたらいいか迷っているうちに、清美はぼくから離れ、出口に向かって歩いていく。うしろ姿を目で追いかけながら、二人の関係は元に戻らないだろうとぼくは思った。

けれどそれはぼくの思い過ごしのようだった。清美はぼくの世話役を降りようとはしなかった。むしろ以前よりも熱を入れて取り組んでいるように思えた。当たり役を手に入れた役者のように、誇らしげに見えた。

紙袋は玄関に置いた。

ぼくと清美はテーブルを挟んで向かい合った。しばらく互いの顔を見つめる時間が流れた。部屋の中にはぼくたち二人しかいなかった。

清美は少し痩せてきれいになっていた。とはいっても元が元だから程度問題である。菜穂子と比べるとやはりださくてがっしりしていて、地味だった。

でも自信に満ち溢れていた。ぼくの前で挙動不審になるくらいおどおどしていた娘はもういない。もう似合わない。

清美はノートと鉛筆を持ってきて、二人の間に置いた。そして唇に人差し指を当ててから『どうしてツネオさんがここにいないか分かる?』と書いて寄越した。ぼくにもノートに書けとゼスチャーで指示する。

ぼくは『コンビニによるとしか聞いていない。ほかに理由があるのか?』と書いた。清美は頷くと『わたしを盗ちょうするためよ』と大きく書いた。ぼくは目を見張った。

『わたしたちうたがわれています』と清美は書いた。続けて『しーんとしてるとあやしまれるから、フツーの会話は声を出しましょう』と書いた。ぼくは頷いた。

「いつ結婚するの?」とぼくは訊いた。「いい人じゃないか。きみに夢中なんだろ?しっかり捕まえておいたほうがいいぜ」

「とりあえず一緒に住むことにしたの」と清美は言った。

「今月中には部屋を決めて、引っ越す予定なの。いま荷物の整理をしていてもう大変。ほとんど捨てることになると思う」

『スゴイやきもちやきなの。とくにあなたに対して!』と清美は書いた。

『だから今日来なかったのか?』とぼくは書いた。

『もう会うな!とどなられたの。ごめんなさい』

「きみにひと目惚れだったんだろ?」とぼくは訊いた。「会った瞬間この人と結婚すると閃いたらしいよ。きみはどうだった?電流が走った?」

『走らなかった。タイプじゃないから。でもありがたい。感しゃしている』

「そうかも」と鉛筆を置いて清美は言った。「なんとなくそう感じるものはあったかも。だから一緒になるんだと思う」

『彼どう?』と清美は書いた。

『いい人。でも一生あの人でいいの?トウチョウはきついだろ?』とぼくは書いた。

『わたしのために盗ちょうキをしかけてくれるなんて、ありえないと思った。いいほうのビックリ!うれしかった』

『いつ気がついた?』

『先月』

『ハンザイだろ。やめさせてやれ』

『すぐやめると思う』

『やきもちはなおらんぞ』

『わたしのためにハンザイを犯す人が現れるなんてありえないこと。みっともない。すぐどなる。わがまま。でも全部わたしのものなの。それがシアワセです』

清美は煙草を吸うことを許してくれた。隣の部屋の山積みになったダンボールの中から灰皿を見つけ出し、テーブルに置いてくれた。金魚の模様の入ったガラスの灰皿だった。ぼくがこの部屋で使っていた物だ。

ぼくは煙草を吹かしながら、ダンボールの山を眺めた。きっとこの部屋にあるぼくに関係する総ての物があの中に詰め込まれているのだろうと思った。

「菜穂子さんの留学は決まったの?」と清美は訊いた。「八島さんのことだから心配はしていないけれど、一人で行かせていいの?それとももう他にいい人がいるのかな?女に不自由はしないんでしょ?」

「もちろん」とぼくは答えた。「誰にしようか決めかねているところだよ。菜穂子はもともと結婚願望がなかったからね。この先どうなるかは分からないけれど」

『そろそろ行くよ。彼氏によろしく』とぼくは書いた。

『来てくれてうれしかったです。今までありがとうございました。デビュー待ってますよ!』

『うん。お幸せに!』

『どうして連絡をくれたんですか?』と清美は書いて寄越した。書きなぐりではない、きちんとした字だった。ぼくは坐り直した。

清美の視線を感じながら答えを書いた。それが本音だった。いやどうなのか自分でもよく分からない。ぼくはその頁を破いた。

玄関のブザーが鳴った。宗常雄が鳴らしたのだった。ぼくは席を立ち、宗常雄と入れ替わるように外に出た。ろくな挨拶もできなかった。

ドアが開いて宗常雄が出てきた。にこにこ笑いながら「八島さん忘れ物ですよ」と声をかけた。紙袋を掲げた。結構な重量のはずなのに宗常雄はけろりとしていた。

ぼくは礼を言って受け取った。ずしりときて足がよろめいた。同人誌十冊分の重さだった。いやそれ以上の重さだった。

道路に出ると清美の声が聞こえた。八島さんと呼ばれた。振り向くと清美はいなかった。アパートの窓も閉じられたままだった。

坂を降り切るのに何度も休む羽目になった。紙袋のうえに腰を下ろして一服した。ポケットから丸めた紙切れを取り出した。広げて読んだ。震える字で『じたばた』と書いてあった。

小説◇「もう雪はいらない」  文=成澤利律子

十センチ積もっていた。
ヘルパーさんが「今日出かけるのは大変ですよ」と言っていたが、
「行くだけ行ってみる」と外へ出て五秒で車いすのタイヤが雪に埋もれた。
まだ除雪がされていない歩道は人が一人歩くのがやっとだった。
家に戻り除雪センターに電話を掛けた
「すみません車椅子なんですけど何時頃除雪入れますか」
「みんな出払っているので何時になるかわからない」とそっけない答えが返ってきた。
冬は横断歩道や雪道とロードヒーティングの境に十センチ程の段差が出来る。
普通の人にとってはなんて事のない段差が私の行く手を阻む、
仕方なく車道を命がけで走る事も少なくない。
気温の高い日は歩道の雪が溶けザホザホになり、
車椅子が埋まり中々進めない。
困っていると見知らぬ人が「手伝いますよ」と声をかけてくれる。
何とか走り出すがまた段差が現れる。
親切な人が多いことを嬉しく思う。
反面私が「すみません」と声をかけても通りすぎてしまう人もいる。
その人の後ろ姿を見つめて
「あ〜あ行っちゃった。少しくらい押してくれてもバチ当たらないと思うよ」
と思いながら誰か通るのを待つ。
別の人駆け寄ってきて助けてくれた。
「捨てる神あれば、拾う神あり」
私は運が良い。
「もう雪はいらない」と思うけれど、
人の優しさが感じられるものこの時期なのだ。

随筆◇「根室の金毘羅祭り」  文=波津俊昭

北海道の東端は、海霧の流れが深い。乳白色は、一寸先の視界を遮る。海霧が少なくなる八月。町内では「そろそろ、こんぴらさんだね」の挨拶が多くなる。街角には、幟が立つ。白地に黒い、「金毘羅神社例大祭」の文字がはためく。ふるさとを離れて、半世紀を越す。遠くに、豊平川の花火の音が聞こえるとき、思いが、幼時の祭へと傾くのである。

根室の町は、港から少し坂を上ると下町になる。下町からさらに上ると、官庁街やら花街があった。花街のある周辺を、通称「山の上」と呼んだ。幼いころの私は、山の上にある母方の祖父母に預けられていた。煉瓦工場を営んでおり、周辺の地下に良質の粘土が埋蔵されているので、その地を選んだのだと聞かされた。
祖父は金毘羅神社の氏子であり、祭り最終日の行列を迎える準備に忙しい。茶菓の接待をするので、女の手はさらに暇が無い。手を引かれる祭り見物は、神輿が下町の商店街にお泊まりになる宵宮に限られた。中日の八月十日は、朝から下町の祭り見物に出かけた。
 「サァーサァーお立会い、御用とお急ぎでない方はゆっくりと聞いておいでーー」に始まる、陣中膏「がまの油売り」の口上。一本の棒切れを持ち、地面に半円を描く香具師。
 「坊やは、賢そうな顔をしているね」と、最前列に腰をかがめる幼い私を見る。チラッ。親子連れかなと、気付かれないように見渡し、親が居ないと態度が変わる。
 「ハイハイ、おあしの無い方は後ろ、ある方は前。坊やは、後ろね」見物の前列は、大人たちに入れ替わる。それで諦める、チビじゃない。後列で股の下から、覗き込む。
 「サテお立会い、抜けば玉散る氷の刃。この紙を、切ってお目にかけよう。一枚が二枚、二枚が四枚――」延々と続く口上に、いつ、二の腕を斬るのかとハラハラする。
 「本日は、金波銀波の波高い、根室まで出張っての大安売りだ。男は度胸、女は愛嬌、山で鳴くのはホーホケキョ」斬らず仕舞いで、蛤の貝に入った膏薬を半額で売った。
サーカスでは、クラリネットの奏でる「美しき天然」が泣いていた。「空にさえずる鳥の声――」あの音色は、どこかもの悲しい。人攫いにさらわれた少女が、泣きながら空中ブランコをしているように思えるのだ。
見物人は小屋の前に立ち、幕の中の様子を想像する。「はいッ、いま入ると、象の曲芸が見られますよぉ」するするっと幕が揚がって、場内の様子をチラッと見せ、すぐに閉じてしまう。周辺をぶらつき、時間稼ぎをして客寄せの幕開けを待った。
サーカスの周りには、たくさんの見世物小屋がならんでいた。「キャっ!」叫び声のする、化け物屋敷。「親の因果が子に祟り、見てやってくださいこの姿」ろくろ首や、毛むくじゃらの熊女。「聞いて極楽、見て地獄」ドスの利いた声は、地獄絵の下で呼び込みをする刺青の怖いオニイさん。
「ダダダダ・・・」太い円筒の内側を走る、オートバイ。「はいッ、目隠しの、手離し操縦実演中です」爆音に負けじと、呼び込みの声を張りあげる。見世物小屋の隙間に陣取るのが、鉄砲射ちや、弓の射的。「撃ち落せば、タダでお持ち帰りだよ――」
何回見ても飽きず、足が棒になった。見物は、ひとりである。母親と手をつなぐ子を、うらやましく眺めた。露店などを回り歩いた最後の〆は、やっぱりサーカスだった。ジンタに、足が惹かれるのだ。「――大波小波とうとうと」もの哀しいクラリネットの音が消えるころ、大漁旗をなびかせた船は、沖に向かって波を蹴った。サンマ漁であったかもしれない。
祭りの最終日十一日は、海岸通りを回った行列が、花街を通って「山の上」の通りに現れた。先導は、白い制服にサーベルを下げた巡査である。つづくのが、若い衆の金棒突き。「チャンポン・チャンポン・チャンチャン・ポンポン・エンヤ!」
天狗の面をつけた猿田彦が、高下駄で大股に足を運ぶ。馬上の神官につづくのが、神輿である。黄金は、担ぎ手によって揺れた。祖父の家の前で一服するのは、紋付袴姿。あれはスゲ笠と呼ぶのだろうか、頭のものをはずす。町の有力者が休憩する間、三味や太鼓に合わせた芸者衆の手踊りが始まる。
 一服後は、獅子舞の獅子が、赤い口を開けて子どもたちの頭を噛む。「ホレ」私は、祖父に頭を抑えられ、噛まれた。そして、「頭のよい子になれよ」と、いがぐり頭を撫でるのである。
町内の各区は、競って山車を運んだ。私が、祖父母の家を去る前の年だから、昭和十年である。山車をひくのは馬車であった。大きな、大黒さんとか恵比寿さん。桃を割って立つ、桃太郎。記憶は、原画を残していない。山車の上の若い衆が、先がTの字の長い竿で、邪魔な電線を支えたことだけが鮮明である。
 真上の太陽が西に傾くころ、最後尾の山車が坂を下る。残影が消えると、何も無かったように静寂だけが残った。鰯雲が空高く群れるのは、祭りの終わった翌日からだった。

随筆◇「胸」  文=齋藤千賀子

中学校に入学した時、身長が136センチしかなかった。
 体型も女性らいしい丸みなどなく、やせっぽちだった。初潮も始まった子が多くなっても、私にはその兆しがなかった。特に違いが出てくるのが胸の膨らみだった。
 そんな思いを、いっそう意識するのが水泳の授業だった。学生用の紺色の水着にはパッドなどついていない。貧弱な胸をカバーしてくれるものは何もなく、体型がズバリ出てしまう。私は水着を着るのがとても嫌だった。
 なるべく胸が無いことを知られまいと、猫背気味な姿勢をしたり、人と人の間に隠れるようにしていた。それでも、同じクラスの黒田君から「浜元(旧姓)、お前の胸はナインだなあ」とからかわれた。恥ずかしさでとても悔しかったが言い返せなかった。
 卓球部の練習後、給食で残った牛乳を用務員のおじさんが「飲んでいいよ」と言うので毎日飲んだせいか、中学三年生になった頃には身長が160センチにまで伸びたが、胸は牛乳の恩恵を受けなかった。
 高校生になり、いくぶん膨らみが出てきても、他の子と比べると、やはり小さかった。
 ブラジャーなんて付けても付けなくても支障ないが、幾分大きく見えるので付けているようなものだ。
 少し大きく見せようと、伝線したストッキングを集めて袋状の布の中に詰め込み、手作りパッドを作った。我ながらいいアイデアだと思ったが、ブラジャーの中に押し込んでみたが、横向きになり、胸を鏡に映してみると、膨らみがデコボコで、いびつだったり、動いている内にブラジャーからはみ出してきたりと予想に反して失敗作だった。
 結婚し、妊娠したとき、段々と胸が膨らみ始めて驚いた、今までにない経験だった。
 出産後、生まれた娘に母乳をあげるとき、胸を出した途端、友達から「小さい胸……」と言われた。自分では今までで一番大きな胸だと喜んでいたので、がっくりした。
 五十代の今、若い頃より多少膨らみがあるように見えるのは、中年太りによる皮膚のたるみのせいだ。
 先日、新聞に、胸が小さく見える、ブラジャーが売れているという記事が掲載されていた。胸が大きいと、Tシャツを着たときに、生地が横に伸びてしまうからというのが原因とか……。私にしてみれば考えられない話だが、大きい人には大きい人の悩みがあるようだが、小さくても大きくても、カッコよく見せたい気持ちでは一致しているのだろうか。

随筆◇「宝物」  文=齋藤千賀子

NHKの通信エッセー講座を受講している。先日、作品集が送られてきたので楽しく読んだ。その中で、神奈川県のSさんという五十代の女性が書いた『祝福』が印象に残った。
私の宝物という課題に応えて、初孫の筆者を心から可愛がって育ててくれた祖父の記憶を綴った作品だ。Sさんが祖父と関わりがあったのは、わずか五年であるのに、五十年経った今でも、自分を呼ぶ声が、時々聞こえ、その声が、自分の支えや力となり、困難にぶつかった時に自分の人生が祝福されて始まったことを思い出させてくれるというのだ。中でも、文中の「誰かから無条件に愛された記憶は宝物になる。」という言葉に私は一番感銘を受けた。
 私も、内孫としては初孫だったが、年子の弟が生まれてからは、祖父母の可愛がる対象は弟に移ってしまったと、母から聞かされて育った。
 私の場合、六歳まで祖父がいたし、祖母は十歳まで生きていたが、残念ながら筆者のような思い出はない。特に、祖母は私のことは可愛げのない孫と思っていたかもしれない。
 我が家の前に、畳二畳ほどの広さの花畑があり、祖母が丹精を込めて、白い菊だけを植えていた。ある日、母が工場から帰ってくると、白い菊の花の部分だけが、すべて摘まれ、茎と葉だけになった緑の草畑になっていた。母は、とても驚いて私に理由を聞いたそうだ、私は「ままごとの、ごはんの代わりにした。」と答えたそうだ。母は、姑である祖母に、たいそう謝ったと、祖母が亡くなってから教えてくれた。
 別な日、親類のおばさんが遊びに来た際、祖母は居なかったが、母とおばさんの前で「おばあちゃんなんか死んじゃえばいいのに」と言って、母とおばさんを驚かせた。孫の私なりに、理由があった。祖母は糖尿病が悪化し、やけどが治らず、足の指などが壊死し始めていた。そんなせいで体調が悪い日も多かったのだろう、私の友達を家に連れてくることを嫌がり「外で遊びなさい」と、いつも追っ払われた。その言葉が、小学生の私には、とても意地悪なおばあちゃんにしか映らなかった。だから、おばあちゃんさえ居なければ、友達と楽しく家で遊べるのに、という気持ちから出た言葉だった。
 後年、母は「あの時はドキっとしたよ、まるで私が言ってるみたいに、おばさんに受け止められたんじゃないかって、おばさんは笑ってたけど」今になってみれば、もちろん祖母の気持ちも理解できるが、当時、小学生の私にはそこまで思いは及ばなかった。
 弟は、おとなしくて言うことを利く子だったので、祖母はとても可愛がっていた。一緒に汽車に乗せて、親類の家へ遊びに連れて行くのは弟だけだったし、小学校へ上がる前に私は二年間ほど保育園に預けられたが、祖母は弟が、よその子に苛められるんじゃないかと心配し、小学校へ上がるまで自分の手元で育てた。私のことは可愛くないのかな、弟と差をつけられたせいか、私は祖母に親近感など持てなかった。
 祖母が亡くなる前、親類が病室に集まり、一言づつ声をかけていた。私の番が回ってきたが、間近に見る祖母の顔は、眼の周りが、隈になり窪んだ上瞼のせいで目玉だけがギョロギョロして、とても恐ろしい顔に見えた。母に何か声をかけてあげなさいと耳打ちされたが、とうとう何も言えず仕舞いだった。
 あとから母が「千賀子は何も声をかけてくれなかった、死んだら化けて出てやると言ってたよ」と言われたことが頭から離れず、一度、祖母が仏壇の中から白装束を着てひゅうっと出て来た夢を見たことがあり、とても怖かった。だがよく考えてみると、あの世へ旅立とうとしている人が、この期に及んで、そんなことを言うだろうか、きっと母が私をからかったと思い直したのは大人になってからだ。
 今になって、考えてみると、私は利かん坊で、弟は泣き虫だった。小さいころ、弟が泣いて帰ってきたとき、棒切れを持って、弟を泣かした近所の子供に仇を打ちに行った。
 もしかしたら、祖母は、そんな私は放っておいても大丈夫と思い、泣き虫の弟のほうへ視線や関心が注がれていたのかもしれない。
 母方の祖父母はもっと短命で祖父は私が二歳の時、祖母は四歳半で亡くなった。母の実家は、釧路に近い厚岸町で造林業を営んでいた。祖父は十人の子供全員に教育を施してくれたという。母は勉強が嫌いだったので、釧路の技芸学校へ進み、和裁や洋裁を身に着けたらしい。私は生前の祖父との記憶がないが、写真で見る、祖父は母にそっくりで、とても親近感が湧いた。祖母は、たいへん面倒見がよく、戦後は親類の子供を引き受け、自分の子供と一緒に育てていた時期もあったそうだ。いつも控えめにというのが祖母の口癖だったらしい。
 年末には、牛を丸ごと一頭買い、雇っている人にも振る舞ったりしたらしい。そんな話を聞くたび、子供心に、母方の祖母がとてもやさしい人に感じた。
 それでも母は「私の母親はかわいそうだったよ」と決まって言うのだった。祖父は近くの山林だけでなく、北見に近い美幌にも山林を所有していたので、仕事で不在が多く、十人の子宝に恵まれたものの、最後のお産の肥立ちが悪く、亡くなるまでの数年間を結核療養所で過ごしたからだ。私も、母に手を引かれて、冬の道を釧路市の鶴ケ岱にあった結核療養所へ向かって歩いた記憶がある。ベットに座っていた祖母をほんの束の間見舞ったことをおぼろげに覚えている。病床の祖母の写真は笑顔が少なく寂しげなのはそのせいなのだろうか。
 私は、自分が大きくなるまで生きていてほしかったなあと母から話を聞くたびに思った。もしかしたら冒頭の筆者のように、無条件に愛された記憶の、ひとかけらでも残っていたかもしれない。
 先月、十年ぶりに岩見沢に住む、高校時代の友人のYさんに会いに行った。
 彼女は、とてもおばあちゃん子だった。私も彼女のおばあちゃんが大好きだった。
 Yさんの、お母さんの実家が布団店を営んでいた。我が家も布団の打ち直しや、引き出物にシーツやタオルを購入したとき、月末に支払いに行くと、おばあちゃんが出てこられる。少し低い穏やかな声で、「孫のS子がお世話になりまして」などと高校生の私に、わざわざ膝を折り、ご丁寧に挨拶されるのでとても恐縮してしまうのだ。それだけではなく、必ず箱詰めのお菓子をおみやげにくれるのだ。私がお断りすると、Yさんのおばあちゃんは「もらい物ですから気にせずに」などとニコニコしながら戻されるので結局もらってくるのだが、借金を払いに行って、お菓子をもらってくるのががとても気が引けた。おじいちゃんも、家業の傍ら、雅楽をたしなむ人で、どことなく気品漂うお宅だった。
 私が「やさしいおばあちゃんだったよね」と言うと、Yさんは「おばあちゃんとおじいちゃんは私の中では別格だよ」と答えた。
 そう言える、Yさんは祖父母から形にならない何かを受け継いでいるように感じた。
 私も今、二人の孫を持つ祖母になった。自分になついてくれる孫は、とても可愛い。
 けれど、孫達が私と一緒に遊んでくれるのは、せいぜいあと数年、小学生のうちだけだろうと思っている。幼いころは昼寝をしてくれたので子守をしていても休息が出来たが、最近は孫達のほうがスタミナがあり、私のほうが昼寝をしてしまう。孫達は今年も一緒に水泳に行くのをとても楽しみにしている。孫達の心の中に宝物として残るかどうかはわからないが、少なくとも孫の足手まといにならないよう、祖母の役割を果たしたい。

◇「Nより」  文=槇野ひよし

中学生にもなると、色気づくとまではいかなくても、クシで髪を梳かしたり、肩のふけを払ったり、にきびへ軟膏をちょんと乗せたり、とにかく身だしなみというものを気にするようになる。
 だいたい女子は全員やる。ところが男子はその辺の発育が遅いのか、いまだ小学生気分をひきずっているところがあって、無頓着に、手入れをしないまま学校にやってくる連中がいる。半分くらいはそんなものである。それでも高校に上がれば残りの連中も一斉に色めきだつのだが――
 手入れをしない連中というのも実際のところでは、鏡の前に立って念入りにやってみたいという願望があるが、どうしていいのかがわからないし、鏡の中の自分と目を合わすと、まるで他人から見透かされているような気分になって、直視できなくなったりする。結局、さんざん鏡の前にいても、水でちょっと湿らせて寝癖をささっと直しておしまい。学校へ行くと、同じような連中ばかりで集まるから、自然いけてる奴といけていない奴に分かれる。自己申告で決めているから間違いが無い。でも本音の部分では男子は全員自分はいけていると思っている。本当はあっちだ。でも今はこっちでいい。時期が来れば俺はあっちなのだ。とみんな心の中で思っている。そういう生き物である。
 いけている連中といけていない連中を大きく分けているのは、女子の視線である。どういう視線か?好意の眼差し。好き。こっちを見て、貴方のことが大好きなの。いわゆる熱い視線である。これを手に入れれば、その瞬間から、彼は自他共に認める、いけている男子の仲間入りを果たすのである。

 中二の春にとうとう私もラブレターというものを貰った。もちろん女子からだ。それは一発で判る。まず紙が非常に小さく折りたたまれていた。女子の繊細な指先による芸当であることが一目瞭然だ。次にかわいらしい書体で文が綴ってあった。しかも文字が水色である。もしかするとピンクだったかもしれない。私は色弱なので見間違えている可能性がある。それに使われたインクからはとてもよい香りがした。花の香りだ。つまりとても手の込んだ手紙なのだ。ここまで手間隙をかけた悪戯を私に仕掛ける該当者が周りにいなかったので、この時点でその手紙は本物確定となるのである。
 それは朝だった。玄関で靴を履こうとしたら中に何かある。小さな紙片だった。手で摘んで広げてみると、手紙だった。しかも「いつも見ているのに、全然気がついてくれなくて寂しい。大好き。同じクラスのNより」と書いてある。きっと昨日の下校時に入っていたのだろう。まさか自分の靴にこんなものが入っているなんて思いもよらなかった。
 これはラブレターじゃないか。
 Nって誰だろう?
 ちょっと待てよ、普通はN・YとかN・Kとか、二つ並べるじゃないか。「N」一文字かよ。これだけだと苗字なのか名前なのかはっきりしないじゃねぇか。
 ――こりゃあきっと上だな。苗字だな。これで下なら気づいてもらいたいっていう気があんまり無いんじゃないのか?向こうとしては気づいて欲しいんだから、これは苗字のNだろう。うん。
 同じクラスのNか。
 三人いるぞ。
 かわいい順から名前を挙げてみた。
 永沢裕子、根本由美、野村遼子。
 どれでもいいぞと思った。三人ともクラスのベスト5に入る美女だ。
 やった。ついにやった、と両手でガッツポーズ。
 ズボンのポケットに紙片を忍ばせながら学校へ。
「よお」
「うっす」
 いつもの冴えない連中へ挨拶をすませ、やや引き気味に輪に加わる。今日はいつにも増して連中がドロ臭く見える。いつも感じていた安らぎや、泥の中の温かさをまったく感じない。むしろこんな恐ろしい形相の連中とよく一緒に過ごしていたなと寒気が走るほどだった。
「どうした風邪か?」
「違うよ」馬鹿野郎。てめえと一緒にすんな。
「大人しいじゃねぇか」
「ああ。そうだよ」お前らなんかと盛り上がれるかよ。
「これ見ろよ」と採れたてのジャガイモがプリクラを突き出した。
「なんだ?」手にとって見ると、水沢が野村遼子と並んで写っている。「えっ?どういうこと?」思わず大きな声が出た。
「そうだろ。おかしいだろ。これ水沢の財布から落ちたんだよ」
「財布から」
「そうだよ。あいつ、おれらの知らないところでこんなことしてやがったんだぜ」と採れたてのジャガイモの目がめらめらと燃え上がっていた。
「えーあの水沢が野村遼子と付き合っていたのかよ。信じられねーな。まじかよ。なんでだよ」納得がいかなかった。水沢と肩を並べてにっこり笑っている野村遼子に腹が立つ。水沢じゃねぇだろ。おれだろ。なんでよりによってあんなチビなすびなんだよ。納得いかねぇよ。
「水沢には内緒だからな。あいつから言ってくるまで口きくなよ」
「ああ。わかった」待てよ。ということは、ラブレターを書いたのは、永沢裕子か根本由美の二択になるじゃねぇか。どっちも野村遼子よりかわいいぞ。おれという男は水沢なんかより上なんだなあ。
「おはよ」
 水沢のことをわざと冷たい目で見てやった。おれはおまえを助けてやる。おれの目線から汲み取れ。みんなに黙っていることがあるだろう。おれはおまえの味方だよ。なぜならおまえよりもいい女と付き合うことになるからだ。感謝しろよ、チビなすび。
 ところが水沢は一同の態度がおかしいのに気がつくと、ふっと鼻で笑って、輪から離れていった。
「なんだよあの態度」
「おれたちを馬鹿にしてんな、あいつ」
「かもな」おれはお前らとは立場が違うけどな。
「あんな奴を選ぶなんて野村も趣味が悪いぜ」
「まったくだ。うちのクラスでまともなのは永沢と根本くらいだな」と採れたてのジャガイモが吐息まじりに言った。
「まあ、そういうところだな」異論はないよ。確かにこのクラスでまともな美人はその二人だけだ。そしておれのこの手の中にはそのどちらかが書いたラブレターが入っているのだぞ。諸君。思い知るがいい。
「きも」
「どうした」
「らくだの死骸がじっとこっち見てるんだよ」
「え」
「おお」
「うわ」
「今日は一段とひでえな」
「なんだあのリボン。あれは校則違反だろ。らくだがリボンつけていいのかよ」
「笑ったぞ」
「うわ」
「なんで笑ってんだ」
「ただ笑っているだけじゃないぞ。あれはウインクしているんだ」
「よせよ」
「うわ」
「誰に向かってだよ」
「このなかにいるのかもよ」
「まじかよ」
「おい、おまえ訊いてみろよ」
「馬鹿野郎。もしそれでおれだったらどうするんだよ」
「砂漠に帰してやれよ」
「本人にそのつもりはねぇよ」
「どうすんだよ。ずっとこっち見てるぞ。誰か話しかけろよ。ジャンケンだ。ジャンケン」
「よし」
「ジャーンケン、ポン」
 採れたてのジャガイモがリボンをつけたらくだの死骸に向かって、
「おーい。沼田」と言った瞬間、
「よせよ」忘れてた。あだ名しか口にしたことがなかったから。ああ、あいつの苗字。NUMATAじゃねぇか。
「おーい、沼田」
「よせっつってんだよ」思わず、採れたてのジャガイモをパーンと殴った。そしたら手の中で握っていた紙片がポーンと飛んで、隅にいた水沢の足元へひらひらひらと落ちて、それを拾って読んだ水沢がびっくりしてこっちを見たので、こっちも全身全霊をかけて睨み返した。それを公表したら命はないぞ。水沢は呆然として、リボンをつけたらくだの死骸を窺う。らくだの死骸はズバーンとこっちを見つめている。さっきからその熱視線をびんびんと感じてはいるが、ちらりとも目を合わせることができない。なにしろ気づいてくれなくて敵は寂しがっているのだ。気づくものか。水沢を睨む俺を見つめる沼田を眺める水沢の視線のトライアングルが完成していたことを知るのは最後までその三人だけだった。

随筆◇「久里先生」  文=藤原けいこ

プリント用紙に添えている指を、本をめくる時の指先の動きを、私はチラチラと盗み見ている。先生が顔をあげ、教室の皆に話しはじめられても、その指先から目が離せない。さらに凝視して一本一本の指の爪にそれが施されているのを確認する。
 或る日の読書会に偶然にも私は先生と隣席していた。何気なく先生の指先が私の視野に入った。思わずぎくりと驚く。サーモンピンクのマニキュアが爪全体に塗られ、先端に白い花が立体的に付いている。そこにラメが散りばめてあるという、何とも素敵なトーンで仕上げられたネイルアートの爪であった。
『ヒァー、ネイルアートだ。先生!なんておしゃれ〜』心の中で叫びながら、私は絶句。ここまでお洒落な方とは思ってもいなかった。
『先生、わかーい!先生は確か八十歳近いはず、この私がまだしたことのないネイル……』
 と私の頭の中で言葉があれこれと飛び交っていた。
 さっそく翌日「ねぇユッコ、お母さん、ネイル一度してみたいんだけど」と、娘にねだりネイルアートをしてもらう約束をした。これでひとまず私の興奮はおさまったのだ。
 また某日「昴の会」の帰り時、靴箱に赤いサンダルが目に止まった。子供の頃、グリム童話を読んで以来、私はずっと赤、特に「赤い靴」に特別な思いを抱き続けている。赤いサンダル! そのデザインといい、色会いといい素敵! 誰のだろう……誰が履いてきたのだろう? と私はおおいに興味をそそられた。間もなく、サンダルと同系色のスーツを着た七十歳前後の風格のある婦人がそのサンダルに手をのべた。なんと、久里先生ではないか。
「あー先生のだったんですか。素敵なサンダルですね」と私は思わず声をかけてしまった。あの時の落ち着いたスーツの赤と同色のサンダルとのコーデネートに、私は唾を呑み込んだ。それにしても先生は八十歳近いはず。赤で統一されたファションを少しも違和感なく着こなしておられた。
 雨の日、パープル色の洋服、バッグ、傘の果てまでも統一して講義に来られた。細やかな配色への拘りとセンスには年齢を感じさせないものがある。とにかくお洒落な方である。
 あっそうそう、何時か講義に薔薇のコサージュを飾った帽子を被っていらしたことがある。地味な文章教室内がぱぁと華やぎ明るくなった。
 先生は著書の中で自分を「ブス」と称し、そのコンプレックスが物を書かせる一因だと告白しておられる。その卑下心はどこからのものであるのか私には皆目見当がつかない。
 講義を終えた後、しきりに携帯で連絡を取っている姿を見受けたことがある。どうやら行き先はススキノ方向らしい。先生のパワフルなのには「全く、まいったァー」なのだ。
 夏、先生のお宅を訪問した。レンガ塀で囲まれた広い庭、昔ながらの大きな三角屋根、深閑とした佇まいの邸宅であった。奥まった玄関に先生がひまわりの花柄のワンピース姿で迎えて下さり、掃除の行き届いた仏間や茶室など邸内をオープンに案内して下さった。
 雑談をするうち、膝の関節症に悩む私の話を聞くや否や、先生はヨガを取り入れた自己流の体操を教えようと、柔軟に身体をくねらせ、あれこれと色々なポーズをとって解説付きの実演をしてくださった。ワンピースを着ていた先生は、時には下着をチラリとさせながらもお構いなく頑張っておられた。私の原稿を見てもらうという今日の本題そこのけの先生のサービス過剰さにあてられて、私はただ椅子の上から「はァー」と眺めているばかり。帰宅後、ポーズ何一つ思い出せないが、先生が真剣にストレッチ体操をなさっていた光景ばかりが甦るのだ。背筋のぴんと伸ばした姿勢の秘密がそこにあった。

 先日、押し入れの片付けをしていたら、昔、子供達の使ったファミコンが見付かった。いい加減手垢のこびり付いた埃だらけのゲーム機器だ。こんなお古はもう使わないだろうと、廊下に放り出して置いた。それを見た夫曰く
「あのファミコン投げるなよ。プレミア付いているからな」
「へーそうなの……あれ幾らくらいで売れるの」
「解らん、いくらかは解らんけどよ。アンタより高いことは確かだ」
 今や髪には疎らに白いものが……その中身の機能もめっきり衰え始めてきた。頻繁なドジと忘れ物、常に捜し物に費やす無駄な時間と労力の損失。めっきり私の価値も下落の一途をたどるばかり。と云う訳で私の八十歳はどうなるものかと、ふっと想像してしまう。
 いつも元気でお洒落で常に文庫本を所持されて、今だかって老い知らずの勉強家。無駄なく時間を過ごす姿にいつも私は魅せられ、あやかりたいと思っている。
 作家、沓沢久里先生、これからも我々のお手本として多いに活躍していただきたい。

随筆◇「キリギリスが鳴いた夏」  文=神田寿美子

夏のはじめ、息子が突然「緑のカーテンを作る」と宣言し、三階の狭いベランダに四コのプランターを並べた。
 アサガオ、キューリ、ゴーヤ。
 大きな葉が茂るものばかりなので、直にベランダの手すりの高さまで立派な緑のカーテンができた。間もなくアサガオが咲き、紋白蝶が訪れた。
 キューリとゴーヤに実がなり始めた頃息子は「緑の葉っぱには昆虫が似合う」と言い、サイクリングに出かける度に、一匹また一匹とキリギリスのオスを捕まえてきた。二匹はそれぞれの籠の中で競うように鳴いた。
 あまりの賑やかさに「メスを呼んでいるのかも知れない」と今度はメスを捕まえてきた。共喰いしないようにと、蛋白源の煮干しを入れて二匹のオスを一つの籠に同居させ、空いた方にメスを入れて二つの籠を並べた。微妙に鳴き方が違う二匹のキリギリスは益々賑やかに鳴いた。
 やがて「離れていたらやっぱりかわいそうだ」と、三匹共同じ虫籠に閉じ込められた。
本当は籠二つのエサ遣りが面倒になったのかもしれない。キリギリスのオスは動物のオスのような縄張り争いもメスの争奪戦もしなかった。三匹はベランダで収穫したキューリや、梨の皮バジルの葉等を喜んで食べていた。
九月二十五日の朝、息子が「メスだけでも放してやろうかな、卵産みたいかもしれないし」と言いながら出勤していったのだが、元気そうに見えたメスが夕方には死んでいた。見つけた夫に「お腹から黒いひものようなものをひねり出して死んでるゾ。見てこい」と言われたが、私は気持ちが悪いので見なかった。夜、帰宅した息子は「出産を終えて、力尽きたんだね」と言って庭のどこかに埋めてきた。
 雪虫が飛び交う季節になっても、二匹のキリギリスは相変らず元気だった。だが、運動不足がたたったようで、遠くまで飛んでは逃げられない。息子が籠の中に手を入れるとその手の甲に乗って外まで出てくるが、新鮮なエサが入ったのを見ると自分から籠の中に戻っていく。虫が人に懐くとは考えられないが、無防備になってしまったのは確かなようだ。
 草むらで自由に飛び跳ねていた虫達が死に絶え、鳴き声ひとつ聞こえない十月も末になっても、息子に捕まえられたキリギリスのオス達は元気いっぱいだった。
 だが十一月上旬、二匹目のキリギリスが死に、勤労感謝の日には最後の一匹も死んだ。今度はよくよく眺めてお別れをした。キリギリスにはまぶたが無い。丸い目をして、死んでいるようには見えなかったが、前日から体が茶色っぽくなり後足が片方もげていたから、天寿を全うしたのだ。
私は無精者なので只の一度も水遣りをしなかったし、キリギリスの世話もしなかった。やった、と言えるのは梨やリンゴを食べる時、かれらのためにほんの少し厚目に皮をむいて保存しておくことと、ゴーヤが嫌いな息子にこの苦さが美味しいのだ、と教えて少しでも食べるように仕向けたことだ。
 秋口に緑のカーテンは片付けられたが、夏の間中居ながらにして色も形もとりどりのアサガオを眺め、小ぶりのゴーヤを何度も食べた。やかましく鳴くキリギリスから元気をもらっていた。その度に自分の暮らしの平穏をありがたく思い、東日本大震災とその後の原発による被害に遭われた方々の不幸を思った。3・11がなかったらこの日々はただの思い出で終るところだった。
 レポーターが「何の音もしない……」と呟きながら瓦礫の中を歩いている姿をテレビで見たのは何カ月前のことだっただろう。実は震災直後には、被災した方々を細々とでも末長く応援していこうと思い何度か寄付をしたのだが、数カ月前「今だに被災者に義援金が届いていない」と報道されてから、がっかりしてやる気をなくしていた。あそこに寄付をするのはもう止めよう。届かない義援金を送ってもしかたがない。けれど、楽しく暮せば暮す程私の心はチクチクと痛んでいた。
 今度は違う団体に寄付をすることにした。私にはボランティアに行く元気はないが、活動する人の後押し位はできるから。
 私にとって楽しい夏は、被災した方々には悲しい夏だったに違いない。とうとう寒い冬になった。どうか強い気持ちで生き抜いてほしい。些細なことにすぐ動揺する私だが、人様にはそんな無理を要求している。
 人生、いつ何が起こるか分らない。3・11がそれを教えた。何でもない日常が、実はこの上なく幸せなのだ、と実感させられた今年の夏のできごとだった。

随筆◇「文章サロンの四年間」  文=神田寿美子

二〇〇七年一〇月、私は過去に引きずられて前へ進めない自分を何とかしたい、そのためには荒療治が必要だ、と考えて文章サロンに入会した。
 前年の四月に姑を亡くしていた。それより前の三年間は介護、もっと前から、次第に体が弱っていく姑と付き合う時間が増えるようになっていた。
 私は長男の嫁なので姑のお世話をするのは当然、と姑も私も周りの者皆も思っていて、私は実家の母に対する以上に姑に孝養を尽していた。
 隣近所の、姑と親しくしていたお婆さん達は私を大いに評価してくれたが、私は姑が決して満足していないことをひしひしと感じていた。姑が死ぬ程嫌っていた介護保険を利用したし、在宅で最期を迎えさせてあげられなかったからだ。
 子どもの頃、何か文句を付けたくても付けられずにいたからだろう、母によく「顔に書いてある」と言い当てられ、何て書いてあるのだろう、と不思議だった。「目は口ほどにものを言う」と言われたりもした。姑と関わりながら、しきりに思うのはその言葉だった。姑の顔は私には分りやすかったが、夫や義妹があまり気にしないのは、姑が子どもの前では嬉しそうな顔を見せていたからだろう、と思っている。
 四十九日の間中、私は金縛りに遭ったように行きたい所にも行かないで、姑の霊が安らかに成仏しますように、と願っていた。
 だが、安らげないのは自分の心だった。一ヵ月に二度の自然観察、姉達との一泊旅行、友達との会食等つぎつぎと解禁していったが、楽しいのはその時だけで、いつまでたっても私の気は晴れない。本当はヨガを再開すれば良いと思うのだが、どうしてもその気力が出てこない。体より気持ちの方が先だ、と考えて文章サロンの一員になったのが、今から四年前だった。
 最初の頃、提出物は赤ペンが入って真赤なのだが、先生はとにかくどこかを見付けては誉めて下さるので、その言葉に乗せられて喜んで書いていた。課題が出ると、心に浮ぶのは全部子どもの頃の出来事で、楽しかったことばかり思い出されて幸せな気分になった。
 少し慣れてきた頃「何故書くのか」という題を付けて、自分の思いを書いてみた。自分では精一杯書いたつもりだったが、何せ私の心の内は複雑なままなので、先生に「何を言いたいのか分らない。主題を二つに分けて書き直しなさい」と言われ原稿を戻された。先生は何でもお見通しなので、自分にも気付かなかった心の内まで分りやすく文章にしてくれる時がある。この時も、分ってもらえるかと思ったのだがそうはいかなかった。どこをどう直せば良いのか見当が付かない。もう考えるのは止めて、次は数日前に起きた自分のボケ話を書いた。
 「訳の解らない一日があった」。後に「狐は私?」と改題して再提出。
 それはようやく自然を歩く会に出られるようになって喜んだあまり、例会のある第一木曜日でも第三木曜日でもない第五木曜日に、一人、のこのこと次回の集合場所に出かけてしまい、家に帰るのも恥ずかしくてそのまま芸術の森へ彫刻を見に行った日のことだった。
 それを読んだ先生に「寿美ちゃんは思い込みが激しい人なんだね」と言われた。しばらくしてから、尊敬する年配の男性にも同じことを言われた。思い込みが激しいのは良いことではない。初めは意味が分らなかったけれど、意識して暮しているうちに、だからしなくても良い苦労をしたのだと思うようになった。
 続いてコラムの勉強をした。身の回りの出来事や心模様等、時節に合ったものを1200字にまとめて書く。日刊現代に採用されたら原稿料を頂ける。
 先生は一人二編以上書いてくるよう命じられたが、自分のことしか興味がない私は全く書くことができない。無理遣り書いて提出しながら、来年もコラムを書かされたらサロンを止めるしかない、と考えていた。
 二度目の年が明け、以前書いた「恋文」を手直しして、昴のホームページに載せることができた。その後、前年に返された「何故書くのか」も、苦労はしたが二編に分けて完成させることができた。他の人が読んでも分らないものを書いている間は、自分の頭の中も整理されていないことを知った。
 私は不器用で体力が無い。頭の中に言葉が浮んでいるうちにこれを書いてしまわねば、と原稿用紙に向かっていると家事は疎かになるし、運動不足にもなる。気持の整理もついたことだし、もうこの辺で文章サロンを止めようと思った。が、私の原稿をパソコンに打ってくれている姉は「止めるんでない」と言う。私は姉に逆らったことがない。先生はどんなことがあっても常に正しい方向に向かっているので、すぐに楽な方へと逃げようとする私のお手本になっている。サロンは良い雰囲気だ。止めたくても止められない状態の中で、私は「石の上にも三年」の諺を思い出し、もう少し続けようと気を取り直した。
 丸三年を迎える少し前になって、急に「神田荘」に起きた事件を書き残して子ども達に読ませたい、と思うようになった。それは今年の「昴の会」の本に、小説となって残された。子ども達は母が介護の傍らでこういう苦労もしていたことを、少しは分ってくれるだろうか。それとも家でする失敗と同じ失敗を、アパートでもした、と思うだろうか。
 三年目に先生から「この一品、と思う自分のお宝」についての課題が出た。物欲が乏しい私は、これはパスだな、と思いながら聞いていたが、家に帰って見たらあった。
「ミモザの絵」
 私にしては高額のこの絵を買った頃の悲しい気持ち、現在の幸せな気持ちをすらすらと書くことができた。
 四年目の今年、大分苦労したが、原稿用紙六枚を五枚に縮めて市民文芸に投稿したところ大きな賞を頂き、そのエッセーも本に載ることになった。努力した甲斐があって、人様に読んで頂ける文章を書けるようになったのは嬉しいが、それ以上に嬉しかったのは娘が私の受賞を喜んでくれたことだ。今はまだ読んでいないが、本を読んだら娘はきっと又泣くだろう。泣いてもいい。
 年の近いもう一人の姉は、生後八十五日目に女の赤ちゃんを亡くしている。その姉は「良い供養になったね」と言ってくれた。
 これを書きたくてサロンに入った訳ではないが、書いたことで本当の意味のご褒美を頂いたような気がしている。それもこれも、先生のご指導の賜と感謝している。
 中村久子先生、四年間どうもありがとうございました。
 これからも「昴の会」でお世話になります。どうぞよろしくお願いします。

随筆◇「Kuri's Letter:ささめやゆき,さまへ」  文=沓沢久里

こちらはもうストーブを二十度にセーブして、一日中付けっ放しで暮らしています。節電を心掛けて照明は消してばかりですけれど、暖房についてはどうなることやら、この冬が心配です。
 ニュースでもご存知のとおり、札幌では円山公園や旭山公園近辺の山の手高級住宅街にヒグマが出没して大騒ぎしています。エゾシカやキタキツネに続いてヒグマよお前もか、とかわいそうでなりません。自然界のバランスを壊してしまった私たち人間に償いの術があるのでしょうか。昨今の天変地異のすべてが、地球を守るための自然界からの人間界への逆襲なのだと思えてなりません。
 さてこの度は素敵な二冊の絵本を早々と御恵贈たまわり、大喜び致しております。
 次々のご出版ほんとうにおめでとうございます。先日のギャラリー展の御盛況ぶりも嬉しく伺い、遠くに居るはがゆさを噛み締めています。でもこうして作家のユキさま直々に絵本を頂戴したり、親しくお便りいただいたりする幸せ、ファンとしましては冥利につきることです。心から御礼申し上げます。
 「ねこのチャッピー」は「あしたうちにねこがくるの」に並ぶ傑作だと感動です。
 どのページを開いても、チャッピーの愛らしくてユーモラスな仕草や表情に、こちらの顔も思わずほころんでしまいます。くりかえし何度も見入り、飽きることがありません。
 チャッピーを可愛がるささめや一家のひとりひとりの優しさが、素朴なタッチの人物描写に溢れ出ています。最小限の線と色彩が最大の効果を発揮して、この上ない安らぎと和らぎが私の心に染み渡ってくるのです。
 こんなやさしい、あたたかい絵本は他の誰にも描けないなぁと、ゆきさまの絵と文に魅せられています。
 おしまいのページには泣かされます。愛しいものとの別れがたまりません。
 うちのいずみは稀代の猫キチでした。彼女の誕生の日からその死まで、猫無しには語れない思い出話がどっさり。十一月十五日には三年目の命日を迎えます。
 仏前に「ねこのチャッピー」を供えました。
 宝飾創りの道を見つける前は大好きな本に埋もれるような生活でした。司書として北海道文学館の蔵書整理をして重症のダストアレルギーでダウン。その後は児童図書館のお姉ちゃんになって、物語世界で夢を紡いでいました。
 三十代からジュエリーデザインとメイキングを生業として、アトリエ「ZEPHYR」を東京の広尾に開きました。夢見る夢子さんの、時代おくれな、アンティーク風の作品ばかりをたくさん残してくれたので、宝飾品など身につける趣味のなかった私が、今や、イヤリング・指輪・ネックレスなどアクセサリーで満艦飾のおばあさんです。
 かつて、大屋政子さんが「お父ちゃんのパッチはいてますねん」と人を笑わせていましたが、私も亡き娘のパンティやシャツを肌につけて一緒に生きている気持ちでいます。
 死によって、肉体は存在として無に帰るものでしょうが、形あるものとして残された遺品や遺影、形はなくとも甦る記憶の数々。死者は残された人々の中から去ることなく、共に在るのだという実感に支えられている毎日です。
 ネコといえど、ゆきさまの筆を動かした追憶のエネルギー源となり、こんな素敵な絵本の中に甦ったチャッピーはなんとハッピーな死者であることよ。
 いずみの思い出を文章に結晶させることの出来ないままで居るのは腑甲非ない、そんな気も生じてきました。
 さて、もう一冊の「イワンの息子」。こっくりとロシヤふうの色彩と、民族的な風情ゆたかに表現されたイワン物語、「イワンのばか」のバリエーションとして興味深く読ませてもらいました。
 絵本に凝縮されている物語の内容の大きさ、あれこれと思考の深まるページに踏みとどまって、読み解く力を強いられてます。子供にはやさしい本なのでしょうが、大人の私には最後のページがたいへん難しい。
 ―なにかだいじなことをおもいだしかけた― 王様のその後のおはなしを子供たちはどんなふうに繋いでいくのでしょうか。
 以前ゆきさま邸をお訪ねした時、貴重な絵本をちょうだいしました。
 久保山さんの第五福竜丸事件を描いたベンシャーンの絵とアーサー・ビナードの文による「ここが家だ」という絵本を再読しました。五十七年前の恐怖が今度はまた、姿を変えて襲ってきました。1954・3・1と2011・3・11。平和利用のための原発が、殺人兵器の原爆とは比較にならぬ地球規模での放射能汚染源であることを、身をもって知らされました。この恐怖の体験を共有する日本人のひとりとして、孫や子供たちのこれからを守るために出来ることがあるなら、非力や無能を承知で、何でもやろうと思います。
 大問題はさておき、先ずは人生最後の大旅行、ポルトガル・スペインへ二十七日から出発です。来春、津田塾大を卒業予定、JTBへの就職内定の孫娘、真帆にねだられて連れていくことにしました。ビッグなお祝いですがじじばば孝行を約束しているので愉しい旅になるでしょう。絵本のお礼が遅れ、どうかお許し下さい。本当にありがとうございました。

随筆◇「東日本大震災に思う」  文=神田寿美子

3月7日にクリント・イーストウッド監督の映画「ヒア・アフター」を見た。冒頭から、これでもかこれでもかという位の迫力で押し寄せる津波のシーンが連続して映り、度肝を抜かれた。津波は、次々と木を薙ぎ倒し家を壊し、人々を飲み込んでいく。CGを駆使したから出来たのだろうけれど、津波のシーンをあれ程までにしつこく映さなくても、というのが見終っての感想だった。
 そして3月11日。震度7の地震だけでも恐ろしいことなのに、想像を絶する巨大津波は東北の平和な街を、まるで空襲に遭ったかのような瓦礫の山に変えた。今となっては、あの映画の津波はきれいな水色をしていた、作りごとだったと思う。
 地震と津波で亡くなった方々は、どれ程の苦痛と恐怖の中で最後の時を迎えられたのだろう。只々、ご冥福をお祈りしている。
 地震と津波は人知を越えたことなので、受け止めるしかない。避難所の人達が立派なのは、皆それを承知しているからだと思う。
 けれど原発事故。これは人災である。そもそもは四十年前に人が作った。その時はまだ沖合にプレート境界がある、とは知られていなかった。だが25日の朝日新聞に「大津波の襲来は二十年前から分っていて、東京電力はその研究成果を原発の安全性の検討に生かしていなかった」と書いてあった。建設当初は最大限の安全性を想定したのだろうが、人間の考えることなど、自然を前にしたら何と貧弱なものだろう。
 事故の発生から二週間経った今、放射能の放出のせいで微量ながら水や野菜が汚染され、作業員3名が被曝した。事故は発生時の予想のレベル4から、アメリカのスリーマイル島の事故のレベル5を越え、旧ソ連のチェルノブイリ事故のレベル7に迫るレベル6まで上ってしまったが、放射能を止める工事はまだまだ終わらない。海洋汚染になる前に、一刻も早く終結してほしい。でも作業員には被曝してほしくない。これはジレンマである。
 チェルノブイリの後、日本には被曝した子ども達を支援する団体が立ち上がった。北海道にも、自宅にホームステイさせて健康の回復に力を貸した人達がいた。事故から25年経った今は逆に支援して頂く側の国になった。
 日本は唯一の原爆被曝国なので、原発を作ってはならないという使命を帯びた国、のような気がしていて、これまでは建設反対の署名用紙がまわってくる度に、私の名と、無断で家族の名も書き連ねてきた。泊原発3号機のプルサーマル計画反対の署名もした。
 私は何でもない自然の風景を見るのが好きなので、日本の土地はもうこれ以上開発されなくても良い、といつも思っていた。その一方で三十年前とは比較にならない程便利な生活をしていて、これは原発による産業の発展のお陰もあるとは、ついこの間まで思ってもみなかった。
 日本は資源を持たない国なので、大量の電気を使いながら物作りをして貿易し、経済を発展させてきた。神戸では復興のシンボルとしてルミナリエが美しく輝いて、街の人々を慰めているようだが、福島の人達はそういう都会的な復興は望まないだろう。震災に遭わなかった人達も、これからは原子力発電所に疑問の目を向けるようになるだろう。
復興とはどのような状態を指すのだろうか。難しい問題だ。太陽光、風力、水力の発電はどの位原発の代りになるのだろうか。もう一度原発を嫌だと言った時、私はどの位今の快適な生活を手離す覚悟があるのだろうか。電気の消し忘れに気を付ける、待機電力は使わないようにする、今はその位しか思いつかないが、私はそれすら時々忘れるのだ。これからは気を付けて暮す。
 新聞には各国からの支援の記事が載っている。その中でも特に、東南アジアの発展途上の国々が「今度は恩返しをする番」と、義援金や救助隊、支援物資を競い合うように日本に送る、の記事に心を動かされた。日本は途上国の資源を安く買い叩きながら経済成長した部分もあるので、嫌われている、と思っていたのだが、日本が経済援助した20年前のことを忘れていなかった。現地で医療や農業の発展に尽力している日本人も居るので、日頃のその人達に対するお礼の気持ちもあるだろう。「ささやかな恩返し」。なんとありがたい言葉だろう。私達は世界の方々から寄せられたこれらの善意を生涯忘れてはいけない。
 朝日新聞のニューヨーク支局長が海外メディアの報道から「立ち向かう姿に賛嘆のまなざし」という見出しでコラムを書き、こう結んだ。「海外の人々は日本の被災者たちの沈着で節度ある態度に賛嘆を惜しまない。苦境にあっても天を恨まず、運命に耐え、助け合う。日本の市民社会に対する世界の信頼は少しも揺らいでいない」。
 でも、各国から注目されているこの振る舞いは東北の人だからできたことで、都会の人、特に東京に住む人達には難しいだろう。好むと好まざるとに拘らず、競争社会の中に生きているので、譲り合いなどしている余裕はないからだ。
 又、岩手県出身の作家、高橋克彦さんの談話が次のように載っていた。
「東北は、平安時代の蝦夷(えみし)の指導者アテルイの時代から、ずっと戦いに負け続けてきた。戦後になっても、中央とは経済的、文化的な格差がある。そういう抑圧に耐え続けた遺伝子が受け継がれ、この危機を耐え忍ぶ力を与えているのでしょうか。子どもから老人まで、国内だけでなく世界を感動させるような見事な振る舞いをしている。この芯の強さに裏打ちされた優しさがある限り、被災地は必ず復興し、みんなを勇気づけてくれると信じています」。
 見出しは「耐え忍ぶ力 見事な振る舞い」。この説得力のある談話を私も信じ、東北の人々を見習い、末長く応援していこうと決心している。

2011年3月28日

随筆◇「正月の固い決意」  文=五月葉子

今年もやっと正月が過ぎ、やれやれほっとした、というか、すっきりした。とにかく正月というのは私にとっては面倒くさい行事だ。仕事を休めるのはいいものの、それ以上にうっとうしいことがたくさんある。よってさっさと過ぎてほしいのが正直な気持ちなのである。
 こう言うと、何だか正月に向けてたいそう骨を折って年末の大掃除をしたり、おせち料理なぞを作って、新年を迎える準備で大忙しのようではあるが、まったくそんなことはない。大掃除は手抜き、年賀状はギリギリになって慌てて書く、おせち料理にいたっては作る気もないので、何をそんなに正月を面倒がるのか。
 これは私の怠惰な性格に起因するところで、普段の生活リズムが乱されるのが何としても憂鬱なのだ。
 まず、正月にはいろんなお勤めがくっついてくる。大掃除、年賀状の発送、上司、同僚への年末&年始の挨拶、実家への帰省、場合によっては親戚への年始の挨拶、などなど仰々しいことが盛りだくさんだ。そして私はこういう”仰々しいこと”が大の苦手で、特にあいさつはいろんな人に何回も頭を下げて通り一遍の定例句を言う、それだけですっかり疲れきってしまう。
 こんなだから、たぶん未だに嫁に行けないのだろう。ともかく、何事もない普通の平穏な日が一番好きだ。
 さて、今年も二十八日で仕事納め、二十九日から一月三日までの六日間の年末年始休暇であったが、いつものようにほどほどに掃除をした後は、本屋に行って適当な小説を買って正月の読書用に用意しておいた。こういう本の仕入れだけは面倒なお勤めの中で、唯一楽しみな仕事だ。
 そして、ちょっと冒険だったかもしれないが、今まで読んだことのない作家の本を選んだ。内山哲夫著の「転落弁護士―私はこうして塀の中に落ちた」(幻冬舎アウトロー文庫)というタイトルの実話をまとめたノンフィクションである。
 大晦日の夜になり、さぁて、今晩はこれを読むぞと楽しみにして、NHKの「紅白歌合戦」を見るともなしに見る。「ああ、加山雄三っていいなぁ」とか「福山雅治は本当にイイ男だなぁ」と眼の保養をした後、ベッドにもぐり込み、先の本を読み始めた。内容が内容だけに刑務所や犯罪者の話が出てきて、文章のまずさにもかかわらず、ついつい好奇心から夢中で読み、途中でそのまま寝てしまった。
 それがいけなかった。とんでもない初夢を見てしまった。自分のベッドの背後にある窓から強盗が入ってきて「金を出せ」と言って、私の首を絞めたのだ。「ヒィッ」と余りの恐怖に慄き、何で私が強盗に遭ってしまったのだと絶望的になって、目が覚めた。「今のは夢だったの?」と、しばし呆然として現実と夢の間をさまよっていた。
 しかし、新年のスタートでもある初夢がこんな不吉なもので、いったいこの一年どうなるのであろうかといささか心配になった。この初夢が私の今年の運勢を暗示しているのだろうか、いやいや、そんなバカげた懸念は払拭しよう。たかが夢だ、昨夜読んだ小説がいけないのだ、都合の悪いことは全部忘れてしまえと思って、建設的なことを考えることにした。
 そうだ、「一年の計は元旦にあり」というではないか、何か今年の目標を立てて、残り少ない四十代を有意義に過ごさないとならない。おまけに今年は年女だ。何か生産的なことをしたい。そして間もなくやってくる五十代に向けて土台作りをしておきたい。
 目標は頑張れば実現可能な範囲で立てよう。やりたいことはたくさんある。高い志もある。
 が、やっぱり、まずは何はさておき、「減量」だなと考える。次元の低い目標で情けないが、これが最優先課題だ。
 何せデブだと何をやっても始まらない。今のメタボについて、「これは私の仮の姿、本当の私はコレよ」と十数年前の写真を見せて言い訳すると、見た人は絶句するくらい私は変わり果ててしまった。あまりにも長くデブをやっていると、どっちが仮の姿で、どっちが本当の私だ?と自分でも思ってくるくらいだ。
 よし、今年は何としても、体重を落として暗黒の時代から抜ける。必ずだ。今まで蓄積して膨らみきった債務(贅肉)とはもうおさらばだ。代わりに、これまで綺麗どころにくれてやった債権(ラッキーチャンス)を回収しよう。いったいどれだけ利益を譲渡してきたんだと思うと本当に頭が痛くなってしまう。軌道修正するのが多少、いやかなり遅かったが、まだ五十の大台まで猶予がある、自分を信じて努力しよう。

随筆◇「ヘアスタイル」  文=五月葉子

前回ヘアカットしてからそろそろ二ヶ月が経つ。今月中にでも美容院に行こうと思うが、さて今回はどうしようかと少し悩む。伸びた分だけ切るか、伸ばすために揃えるだけにするか、はたまたバッサリ短くするか、三択である。美容院に行くまでにはっきり心を決めなければならない。それはちょっと面倒であり、楽しい課題でもある。
一般的に世の男性に評判がいいのはツヤツヤ、サラサラのストレートロングらしい。しかし、年齢とともに髪のツヤは失われ、ボリュームはなくなり、白髪は出てくるといった難問だらけの状況ではストレートロングは難しい。自分に合ったヘアスタイルというのは、年齢、職業、持っている洋服との相性など、トータルで考えなければならない。自分にはいったいどんなヘアスタイルがピッタリなのか、身近に目の確かなアドバイザーがいたらどんなにいいだろう。
さて、自分のことになるとどういうヘアスタイルがいいものか判断できない私だが、他人に対しては不思議とどんな感じが似合うか一瞬で分かる。
 職場の同僚にB子さんという三十代半ばのシングルマザーがいる。長身の色白美女で、ミス○○になってもおかしくないほどの恵まれたルックスをしている。初めて会ったときはショートへアがよく似合っていた。その彼女がいつの間にか髪を伸ばし、肩下十センチほどの巻き髪ロングになっている。そして、以前のさわやかで理知的なイメージから、少しキツイお姉さま風になっていた。
B子さんは普段の基本形はダウンスタイルにして、時々アレンジして夜会巻きやシニヨンにしてくる。そんな時は「事務職というより、どっちかというと美容部員かデパギャル?」と思ったりするくらいだ。持って生まれた素材が既に派手なのに、巻き髪ロングがそれに拍車をかけている。美女だという事実には変わりがないのだが、ヘアスタイルによって逆効果が起きている。
よほど「ショートの方が似合っていたよ」と言いたいところだが、家族でもないのにそこまではっきり言えない。たとえ、ショートヘアが似合ったとしても、彼女はヘアアクセサリーを付けたり、巻いたりしてアレンジを楽しみたいのかもしれない。ただ、「あの巻き髪ロングではいい男性は釣れなそうだ」と余計なことを考えるのであった。
 以前から私は、美女はショートにしたほうが素敵だと信じている。華やかな美女であればこそ、ヘアは脇役としてシンプルにさっぱりさせて、きれいな顔立ちを強調してほしい。例えば、タレントの本上まなみやニュースキャスターの膳場貴子などは典型的なショートヘア美女だと思う。「私も顔に自信があったら、こんなショートでキリリと決めてみたいなぁ」と思っている。
しかし、残念なことに以前テレビか何かでこんなことを聞いたことがある。ショートヘアだったある女性は「ショートヘアの頃は重い荷物を持って階段を上っても、誰も声をかけてくれなかった。でも髪を長くした途端、急に周りの男性たちが親切になり、重い荷物を持っていると『お持ちしましょうか』と助けてくれるようになった」という話だった。まことに信じがたいが、日本男子にはありそうな話だ。
そんなこんなで、私はヘアスタイルを決めるのに、自分の好みや洋服との相性の他、男性ウケが悪くないかといった浅ましい打算までも考慮して最終決定する。そして、毎度短くもないが長くもない、どっちつかずのミディアムで落ち着く。
優柔不断さに気づきながら、「十人並みレベルには、これ位の長さが一番安全だよね」と一人納得する。ホント、まだ独身なのだから、これ以上待遇悪くされたらたまったものじゃない。ショートヘアは当分の間お預けだ。

随筆◇「私の札幌祭り」  文=神田寿美子

年をひとつ重ねる度に時の流れはどんどん早くなる、と思うようになった。残り時間は
楽しく過したい。旅先のホテルの一室で姉と寛いでいた時、良い子でとおした私の、一世一代の秘密を打ち明けた。「私、小さい時、サーカス小屋に只入りしたの」
私の家はサーカス小屋が建つ創成川のすぐ近くにあった。創成川は子どもが遊びに行っても面白いことは何もない川なのだが、お祭りの時期だけは素晴らしい遊び場に変った。
 今は「北海道神宮祭」が正式な呼び名だが、北海道神宮が札幌神社だった頃のお祭りは「札幌祭り」だった。本祭りは毎年六月十五日で、その数日前から、六条橋、五条と四条、三橋の間には創成川の流れの上に頑丈な丸太が渡され、そこにサーカス小屋、オートバイ乗りの小屋、お化け屋敷の小屋等が建ち始まる。私は近所の子ども達と連れ立って、小屋が組み上げられていく様子を見に通った。小屋掛けのすべてが終る頃、一足早くトラやライオンがやってくる。川畔通いは益々楽しくなった。
 小学三、四年生頃のことだった。その日は母と一緒にサーカスを見終っていた。私の好きな出し物は空中ブランコと水芸だった。ピエロも象も見ていた。それなのに、近所の悪餓鬼に言われたとおり、お客さんの子どもに見えるよう着物姿で、幼馴染と一緒に裏側のテントの合わせ目からスルリと小屋の中に入った。只入りは成功した。テントのそばに居た見物客が、突然目の前に現われた子どもにびっくりしていた。
「サーカスの人にさらわれるよ」と脅されながら育った子が、こういうことをした。サーカスの人は子ども達の只入りに気が付いていたようで、次の年から小屋の床は高くなり、繋がれてはいたがシェパードが二、三匹も走り回っていて、もうスリル満点の遊びはできなくなった。
 話題は姉と一緒に遭遇したサーカス小屋の火事に移った。昭和三十四年、私が十五才の時に、トラ、ライオン、犬や猿が焼け死に、怪我人が多数出た大惨事が起きた。南一条橋のそばに火の見櫓があったので鎮火は早かったからか、死者が出なかったのは、不幸中の幸いだった。
 その日私と友達が社会人の姉に引率され、見世物小屋に入ってすぐに「火事だ!」と悲鳴が上がった。見ると入口側の天井から煙がもくもくと入ってくる。大勢の観客は裏木戸に殺到し、入ったばかりの私達は人の後ろでウロウロした。そのうち頭の上でバリバリと燃える音がし始めた。姉の咄嗟の判断で、私達三人だけが迫ってきた黒煙の中を入口に向って走り、燃えている梁の下を潜り抜けて外に飛び出した。
 大抵の人が裏から逃げた後なので、人の姿はまばらで、脱げた靴があちこちに散らばっていた。ひしめき合って並んでいた屋台は跡形もなく、道路は広々と見えた。
 ようやく家の前で母に会え喜んだのも束の間で、今度は火事に驚いて逃げ出した象が、大きな耳をパタパタさせ、思いがけない速さでこちらに向って走ってくるのが見えた。びっくりして、すぐ近くの小路に隠れた。象はその後、門と格子戸がある民家が檻のように見えたのか、その家に逃げ込み茶の間の床を踏み抜いて、身動きがとれなくなったそうだ。
 しばらくしてから母に呼ばれて表に出た。見ると、象と象使いが何事もなかったかのように静かに並んで歩いて帰るところだった。遠ざかっていく後姿は、まるで映画のラストシーンのようだった。
 翌年からお祭りの会場は中島公園に移ってしまった。当時お祭りの日は家々の軒先にピンクの造花が飾られ、大人は仕事を休み、学校は休校になった。食卓に上ったお赤飯、時知らず、煮染、赤カブの甘酢漬け等のご馳走が目に浮ぶ。
 世の中は敗戦の痛手から大分立ち直ってはいたが、親達はまだまだ日々の暮しに精一杯で、あまり子どもに構ってはいられなかった。サーカスの人でさえ、子どもの悪さに目を瞑っていてくれた。子どもにとってはありがたい、のどかな時代だった。
 懐しい思い出だが、だからといって今より昔のほうが良い時代だったとは思わない。お祭りが楽しかったのは、他に楽しいことがあまりなかったからだ。長い暗い時代を経験した戦前生れの人はなおさらのこと、戦争がない今の時代のほうが良い時代だ、と言うのではないだろうか。
 お祭りの火事から半世紀が過ぎた。はるか昔のことのように思えるが、わずか半世紀の間に、町並みも人の心の持ち方も大きく変わった。今は閉塞感の漂う時代だけれど、時代は常に何かを得てはその代償として何かを失いながら変化している。人はいつでも、良かれと思って行動しているから、そのうちきっと良い時代が来る、と私は信じている。

随筆◇「飯茶碗始末」  文=さとう純子

時として、人は何かに対する思いが高じるあまり却って本来の意思とは別の行動に走る場合がある。例えば思いを寄せる相手を訪ねた時。まっしぐらにドアをノックしたい、しかしそうはせずになぜかあたりを行ったり来たり・・・。ちょうどその朝の私がそうだった。
 有田の駅から乗ったバスを郵便局前で降りた。だが目指す店の前はさりげなく通り過ぎる。素知らぬ顔を作ってしばらくあたりをぶらぶらしながら店内の様子を窺う。その店は磁器の絵付が体験できる有田でただ一軒の店なのだ。
 昨日の夕方偵察に来た時には、中に男女のカップルがいて何やら楽しそうに絵筆を動かしており、女性店主が相手をしていた。
 今朝はこざっぱりした作業服姿の初老の男性が、所在なげにひとり座っている。ご丁寧に帽子まで被っている。奥さんに頼まれて朝から店番をしているという格好だ。やせぎみで少し猫背の姿からは真面目な人柄が想像できる。
 いつまでも店の外をウロウロしているわけにはいかない、ようやく決心してドアを押すと、ガラガラーンとベルの音がして、相手はのそりと立ち上がった。

 趣味の陶芸を長く続けたおかげで、陶器の下絵は随分描いた。しかし磁器を手掛けた経験は無い。
 焼物には大きく分けて陶器と磁器がある。陶器は粘土を原料とし、磁器は石を砕いたものが元になる。轆轤の技術や焼く時の温度など、陶器と磁器には、実は陶磁器という言葉で一括りにし難いくらいの違いがある。だがせっかくここまで来たのだから、せめて家で確実に使える作品を仕上げたいと思う。
 救いは描き損じたらティッシュペーパーで拭き取って、何度でも描き直せること。初心者にはありがたいが、さていったい何を描く?
 持参したスケッチブックをこっそり広げてみたが、実際ここで図案に使うとなると、自分が描いた絵はどれもイマイチに思える。
『そう言えば、備え付けの図案があるとガイドブックに出ていたっけ。』
この際それを参考にしようと思って見回せば、テーブルの脇に積まれていたのは、陶器の絵付でおなじみのイラスト集のコピーだった。
 今更そんな絵は描きたくない。しかしその前に目的の器を皿にするか、マグにするかフリーカップにしたらいいのか、それとも湯呑がいいか散々迷う。
 とどのつまりはご飯茶碗に決めたが、やっぱりフリーカップが良かった気がする。だが今さら換えてと頼んだら、店番をしているお父さん、気分を害して嫌な顔をするのではないか・・・。
 諦め半分で茶碗を手に取り、仕方がないので絵は店にあった本職の作品をまねようと試みてあえなく失敗し、次に携帯電話のカメラに保存してあるツワブキを描こうと企て、それもすぐに難しすぎると諦めて、つまり最後は適当にマルやら点やら線を描いてお茶を濁してしまった。
 朝早くから一人で店に入って来たうえに、いつまでもぐずぐずと迷うこのありさま、相手はさりげないふうに澄ましているが、内心こちらを怪しい奴だと思っているのではないか?江戸の昔なら他の藩から入り込んだ産業スパイを疑われて、役人に通報されていたかも知れない。などと妄想たくましく無理やり完成させた絵を今一度眺めてみる。
 家で確実に使える、と言うのはあくまで最低限の希望だった。もしかしたら傑作が出来るかも、という野望だってじつはあった。それが無残に崩壊している。
 気合いを入れて取り掛かった結果がこれで、つくづく神経が疲れた。五色ある絵具も使ったのは三色だけ。おまけに散々やり直しをしたので、さすがの磁器も少々汚くなった。目の前に用意された器の水は何度も筆を洗って汚れている。新しいのに換えてほしいと思うが一向にその気配は無い。相手は悠然とあらぬ方を眺めているばかりだ。
 こんな気の利かない店番では仕方がない。一言換えてくれと頼めば済む話かもしれないが、こういった場面でいつも妙な遠慮をしてしまう。見ている人がいなければ、せめてティッシュに唾でもつけて拭き取るところだ。
 代金は素地の茶碗と絵具代を含めて千円で、送料は着払い。一週間くらいで届くそうだ。

 実を言えば、いつか自分でも上絵のある焼物をやりたいと考えていた。この機会に詳しい人から少し話を聞いておこうと思ったのが、連日宿泊地の佐賀から有田に通った動機の一端だった。だが巡り合ったこのお父さんに色々話しかけてはみるものの、返事は常にひと言だけ。さっぱり会話がはずまない。ここへは思い切って昨日のうちに来るんだったと後悔しきり。
 思えば十年前、初めて訪れた有田はもっと活気があった。今では町のメインストリートの皿山通でさえ空き店舗が目立つ。自己破産告知の張紙もあった。 去年来た時見つけ、結局高価で諦めた皿を今度こそは買おうと出かけた。その店はすでに町から消えていた。
 有田の磁器は美しい。日本一、いや世界一だと思う。磁器でなくては夜も日も明けない有田の町。だが安い外国製品に押されて廃業や倒産が相次いでいるのは、他所も有田も同じだ。有田の製品は黙っていても売れる時代が長かったはずだ。伝統と品質を誇るのはいいが、おもてなしの心を忘れていては、いずれ更なるしっぺがえしが来るのではないか?
『お父さんも無愛想を決め込まず、こんな時だからこそ、町の振興のためにもう一寸(ちょっと)サービス精神を発揮したほうが良いんじゃないの?』
 無口な相手にせめて一矢なりとも報いたいので、胸中ひそかに説教を垂れる。しかし口には出せない。とにかく、やっとの思いで聞き出した話をまとめると以下のようになる。
 今回使った絵具は、無鉛の粉末を乳鉢で擂(す)ったもので、膠が加えてある。その膠が接着剤になって、器の表面に絵付ができる。土台の茶碗はすでに釉薬を掛けて本焼してあるので、糊の役目をするものがないと絵具は表面に定着しない。
 焼き付け温度は八百度以上で行う。鉛が入っていれば七百五十度ほどなので、無鉛の場合はそれより高い温度が必要だということになる。焼くための窯は昔は石炭窯が使われていたそうだ。現在はガスを燃料にする窯が有田で一般的だ。
 大方のところは本で読んでいたことなので、あまり参考になる話は聞けなかった。
 結局、千円ばかりの料金で参考になる話を聞き出し、なおかつあわよくばこじゃれた作品を作りたいと考える方が、どだい無理だという結論に行き着く。欲の皮突っ張って二兎を追う。欲をかくから舞いあがりもする。
 冷や汗かきかき精算を済ませて外に出た。見れば山ぎわの陶山(とうざん)神社の桜が今を盛りと咲いている。ほっとするような、がっかりしたような、訳のわからぬ心地がする。

 一週間前後と聞いていた有田からの小包は、間髪を入れず自宅に届いた。
 それは重要美術品並みに厳重に包装されており、私は送料千七百九十円也を支払うハメになった。合計すること二千七百九十円、高級飯茶碗をこの手で作ったことになる。
 器に関しては、これで結構こだわりがある。器しだいでは普通の家庭料理が御馳走になる、というのが持論だった。ということは、当然逆の場合も有り得る。だが、かかった費用を考えれば、この茶碗迂闊には棄てられない。
 以後、私はこのちょっと忌々しくも想い出深い茶碗でご飯をいただく身となった。

随筆◇「蝉に思う」  文=川瀬潔

八月上旬のある日、午前中から猛暑の気配の中、私は近くの郵便局へ家を後にした。
 二十年振りに、札幌から東京の生活に進路を変え、七月下旬から光が丘で、マンション六階での生活を始めた私たち老夫婦には、かなり厳しい試練の夏である。
 ドアーを閉め、「アジー、アジジー」(暑い、熱い)とぼやきながらエレベータへ向かっていると、一匹の蝉があお向けにひっくり返っている。そっとよけて、郵便局へ急いだ。
 所用を終え帰ってくると、蝉はそのままひっくり返っているではないか。「よく踏まれなかったものだ」家の植木鉢で看取ってやろうと摘んだら、突然「ギヤー」羽ばたいて、飛び立った。生きていたのだ。勢いよく、木々の方へ去っていった。「もう少し生かしてもらえ」見送りながら、私は満足感に浸った。
 今までの札幌の我家では、裏山から聞こえるエゾハルゼミの鳴き声「クークルクルクルクー」で初夏を感じ、耐え忍んだ冬からの開放感に歓喜したが、真夏の蝉の記憶は薄い。
 光が丘のわがマンションのベランダから見わたすと、高層マンション群が立並ぶ。その中を縫って、緑の木々も頑張っている。お蔭で、早朝から夜まで色々な蝉たちが大合唱を奏でてくれる。「ミーン、ミンミンミン、ミィーン」「ジージジジジジージー」「カナカナカナカナカナ」「ツクツクボウシ、ツクツクボウシ」オーケストラは限りなく続く。
 気が付いたら、私はにわか仕立ての蝉研究家になっていた。アロハシャツに半ズボン、麦藁帽にサングラスをかけ、カメラ代わりの携帯電話を持って、近くの公園を歩き廻る。
 公園にアブラゼミがひっくり返っていた。そっと人差し指を蝉の足へ触れると、しがみついてきた。やはり生きていたのだ。蝉はゆっくりと私の手のひらまで歩いてきて、樹液を求めて口(こう)吻(ふん)を刺そうとする。
 近くで遊んでいた幼児がふたり寄ってきた。「生きているぅ!」ひとりが叫んだ。「すごぅい、よかったねー」近くで会話中のひとりのママが言葉をかえした。私が木の根元へ蝉を置くと、ゆっくりと登りはじめた。幼児たちも、ママさんたちも、私も素直に喜んだ。
 コンクリートの中での生活を憂いていた私であったが、少し明るさを感じてきた。ひっくり返りそうになっていた古希の私が、もうひとまわり頑張ってみたい気がしてきた。

随筆◇「ミモザの絵」  文=神田寿美子

娘の初めての赤ちゃんは、細い細いマツ毛をきれいに揃え固く瞼を閉じていた。赤ちゃんの紫色の唇は富士山のように形が良く、おちょぼ口だった。娘にしては上出来、と思える程可愛い顔をした女の赤ちゃんは、予定日を三日過ぎた一月末の夜中、札幌市内の有名な病院の分娩室で息をしないで生まれきた。
 娘は赤ちゃんの協力を得られないのを承知の上で自然分娩したのだが、さすがに力が尽きていた。
 ベビー服を着、帽子を被り、おくるみに包まれた赤ちゃんを抱いたのは私だった。赤ちゃんは私に抱かれた瞬間フワリと体を預け、心做しほっとして微笑んだように見えた。三キロの体重は抱っこするのに丁度良い重さだった。
「ごめんね・・・」
 あの日のことは忘れない。
 娘は里帰り出産だった。日中は骨箱を抱えて居間のソファーに座り、夜になると骨箱を胸に抱いて自分の部屋に戻っていった。
「天国に行ってゆいちゃん(赤ちゃんの名前)に逢えるように、これからもちゃんと暮らそうね」
「悲しいんだからいっぱい泣こうね」
 二人で沢山の涙を流した。なんとも役立たずの、情けない母親だった。
 やがて娘の夫が迎えに来て、二人で帯広に帰っていった。娘の部屋に入るのは辛かった。赤ちゃんを思い出す品は、誰の目にも触れないように一つずつ包装して他の部屋に移し、部屋の模様替えをした。
 三越デパートの九階にある絵の展示室に何気なく足を踏み入れたのはそんな頃だった。最初の部屋でミモザの絵を見た。黄色い花が竹の籠にこぼれる程に活けてあり、その絵のあたりには暖かい光が溢れているように見えた。隣の部屋でも別の画家の絵が展示されていたが、もう一度ミモザの絵を見たくなり、又、その絵の前に戻った。
 私の服装を見たら五十万円の絵を買う人に見えるはずはないのに、スマートな男の店員さんが、
「この絵良いでしょう。この画家さんはミモザの花が好きでミモザの絵を三点持ってきて、二点はもうお買い上げ頂いたのですよ」と話しかけてきた。
 そこにこの絵の画家が現れた。優しそうな中年の女性で、子どもの頃藻岩山の麗に住んでいたことや、去年還暦を迎えたので、自分で自分にご褒美をあげて海外旅行に行ってきたこと等を話してくれた。私は「この絵が一番好き」と感想を云ってその場を離れた。
 九階から地上の食料品売場までエスカレーターで降りた。今晩のおかず何にしよう。けれど瞼の裏ではミモザの絵がチラついていた。もう一度見てから帰ろう。又、エスカレーターに乗った。
 三度目に戻った時、画家はまだ売り場に居た。私を見た店員さんは画家と打ち合わせ「今日が最終日なので、特別に四十万円におまけします、とおっしゃっていますが、如何ですか」と売り込んできた。私には絵に対する素養はないし、本物のミモザの花を見たことがないので絵の値打ちは分からず、「はあ」と云ったきり返事ができないでいた。ただ、あの部屋にこの額を掛けたら部屋が明るくなって気が晴れるだろうな、という気持ちがあるばかりだった。自分の口から「高い」とか「負けて」とかは言っていない。
 けれど、画家と店員さんが目くばせをして「三十五万円にお負けします」と言ってくれた。黄色は元気が出る色だと言うじゃないか、今買わなかったらきっと後悔する。私の通帳にあるギリギリの金額だった。
 広げた新聞紙より十センチ程横巾が狭い、焦茶色の額に納まったミモザの絵はついに私のものになった。幸い絵は家族にも好評だった。もっとありがたいことに、絵を購入してから三年後に娘は男の赤ちゃんを出産した。孫は今年三歳になり、元気一杯に走り回っている。先日は電話で「サッポロに行きたい。おばあちゃんに会いたい」とも言ってくれた。ミモザの絵に御利益があった、とは思わないが、絵に慰められ、気持ちを落ち着かせてもらったのは本当だ。
 今年の三月、花好きの友人が百合が原公園の温室でミモザの花が満開だから見に行こう、と誘ってくれた。行って見て、びっくりした。ミモザは大きな木で、木全体が柔らかく優しい黄色に輝いていた。花は五ミリ位でフワフワと丸い形をしていて、その小さい花が集まってライラックのような房を作り、葉を覆い隠す程の勢いで咲いていた。あまりにも見事だったので夫を誘って又行った。一番良い時期に行ったかも知れないが、本物が放つ美しさは格別だった。
 家に帰り、二人で絵の前に立って、「やっぱり本物には敵わないね」と言いあった。
 でも、私がこの絵を好きなことに変わりはない。私は「あの絵に慰められていました」「赤ちゃんが生まれました」と報告したいので、できることなら画家の荒関かほる子さんにもう一度お会いしたい、と思っている。

随筆◇「皿」  文=さとう純子

大地震が起きても、これだけは無傷で家から持ち出したい、と思うものが一つある。それは二百五十年ほど昔に作られた、金襴手と呼ばれる伊万里の皿である。金泥で唐草を盛った赤い地模様に窓を白く三か所抜き、翼を広げた鶴と雲、その両脇に清楚な草花模様が描き込んである。窓と窓の間には、中心に青い牡丹の花を描いた亀甲模様が浮かんでいる。
 この皿とはJRの八木西口駅に近い、今井町の骨董店で出会った。そこは奈良県の中ではちょっと変わった、江戸時代からの家並が残る町で、酒や醤油の醸造といった古くからの家業を受け継ぐ家々がひしめいていた。
冷たい雨が降ったり止んだりする三月の朝、偶然通りかかった一角にその店はあった。軒の低い通りも、黒い格子戸のはまった店内も、ひっそりと静まり返って見えた。
ぴたりと閉じられた入口の前に立って、私は自分などが入っていいものかどうかと、しばらく様子を窺った。ようやく決心して格子戸を開けると、すぐに玄関の奥の座敷に明かりがついた。私とほぼ同年輩に思える女性が座敷の中央に立って、まだ蛍光灯の紐を握ったままこちらを見ていた。壁際に置かれた時代物の船箪笥の上に、盛装した高貴な美女、という趣でその伊万里の皿が飾られていた。
 それは江戸時代に作られた輸出向けの伊万里だった。裏には「太明成化年製」と銘が入っている。九州の有田で焼かれたものだが、当時ヨーロッパでは日本より中国が磁器の産地として有名だったので、わざわざ中国の年号を入れて出荷したらしい。有田で作ったものを伊万里と呼ぶのは、伊万里の港から各地へ積み出したからだ。
 女主人(あるじ)はそんなことをぽつりぽつりと話した。顔を少し斜めに傾けて、あまりこちらを正視しない、ゆっくりした話し方だった。煎茶が出て、しばらくすると抹茶をごちそうになった。お茶うけは小さな高杯に盛られた干し柿のお菓子だった。
「大和の雛祭りは旧暦でするので、奥に古い雛人形が飾ってあります。見て行きませんか。」
後についていくと、家は表の狭い間口からは想像もつかない、奥行きの深い作りになっていた。中央にはぐるりを縁側で囲んだ坪庭があった。黒々とした石灯籠が立って、傍らの大きく広がった八つ手の葉先から、雨の雫が静かにしたたっていた。
幾つかの部屋を通り過ぎた先、古色を帯びたお雛様の前にあられを盛って置いてあるのは、さっき干し柿のお菓子を載せていたのと同じ漆塗りの高杯だった。
「しっかりした塗りなので、雛の道具を菓子器に使っています。」
女主人が言った。隣の部屋では美術館でしか見たことがないような風俗屏風を背に、素人目にもそれと分かる信楽の大壺が、どっしりと豪快な火色を見せていた。
しばらくして最初の座敷に戻り、私は皿の値段を尋ねてみた。それは予想よりはるかに安いものだった。有り金はたいて買おうと意気込んでいた私は、少し拍子抜けがした。いつの間にか現れた二人連れの女性客が皿の方を見るたび、先に買われはしまいかと胸がどきどきした。
その皿は今、我が家の食器棚の一番安全な場所に収まっている。あの日以来、私は江戸時代の皿と同居して暮らしている。
旅から帰った夜私はその皿を枕元に置いて寝た。仕事をしながら火事や地震の心配もした。そしてその度に、古美術に囲まれて奈良に暮らす、あの骨董屋の女主人を思った。

小説◇「開放感」  文=槇野ひよし

好きな人には嫌われたくない。これが本音。だから裸になって思う存分楽しみたいなんて時は、むしろ嫌いな人を相手にするほうがずっと楽しめる。
 酔った勢いで、酒場の女とホテルへしけこんだ。ちと呑みすぎたらしく頭がぐわんぐわん回っている。目もおかしい。女の顔がピカソの絵みたいに崩れて見える。
「ちょっと、大丈夫?」
 ん?なんだいまの声?
「お水持って来てあげようか?」
 人間の声じゃないな。水族館で聴いたセイウチの鳴き声にそっくりだ。
「ほら、ちゃんと掴んで」水の入ったコップを握らせる。氷が二つ入ってる。なかなか気が利く。
 それをぐっと一息にあけたら、喉がすーっとして、頭がすっきりした。
「おかわりあげようか?」
 笑った顔が阪神の打撃コーチにそっくりだった。おかしいな。どうしてこんな人とホテルに居るんだろう?酔っ払ったとはいえ、こんなにストライクゾーンを外した女を連れ込んだのは初めてだ。
「お風呂いっしょに入る?」
 いやいや。飼育員じゃないんだから、あなたと一緒は無理ですよ。
「じゃあ」と浴室へ消える後姿のたくましさに呆然として、頭を抱えた。
 こりゃまずい。無理だ。あんなのとできるわけない。どうしよう。逃げようか?
 時計を見る。二時か。財布の中身を確かめると二千円しかない。これじゃあタクシーにも乗れない。ススキノから手稲のアパートまで十キロ以上ある。歩くのもしんどいし、どうしようかな、と考えているうちにうつらうつらして、気がつくと、
「ねえ」
 バスタオルを巻いた女が仁王立ちになっていた。
 女がバスタオルを外した瞬間、カーンとどこかでゴングが鳴った。ベッドに押し付けられると服をむしり取られ、丸裸にされた。
 次から次へと女の攻撃を受けてるうちに、なんだかいま生命の危機に瀕してるような、色気なんて艶っぽいものじゃなく、自分という存在を賭けて戦わなければならないような気がして、このやろうと女を組み敷いた。
 いざとなるとこちらのほうが腕力は上だった。好きでも嫌いでもない相手だから、何をしたって恥ずかしくない。
 好きな人には絶対にしない、空想だけでとどめとくような大胆な技を連発する。
 気分爽快だった。不思議だ。
 今までこんな気分を味わったことがない。相手を気にせず振舞うことが、こんなに気持ちのいいことなんて知らなかった。この開放感は何だ?
「また来ようか」
「いいわよ」
 それから何度も試した。ホテルに入ると自分のことだけ、後は何も考えず傍若無人にふるまった。わがままで残酷だろうが気にしなかった。最高だ。つま先から脳天に突き抜ける快感を何度も味わった。女は時々泣いた。涙を見せれば見せるほど、こっちの頭は冷めた。だって元々好きじゃないんだ。そんなのどうだっていい。最初から嫌いなんだから。
「あたしのことどう思ってるの?」ザラついた声で女が訊く。
「別にどうも思ってやしないよ」
「決まった人いるんでしょ?」
「いないよ」
「本当?」
「本当だよ。おまえに嘘なんかつかないよ」
「嬉しい」
 打撃コーチの目が潤んで光る。
「いやいや。勘違いするなよ。おまえのことは本当にどうも思ってないからな。体だけの付き合いだ。はっきり割り切ってくれよ」
「嘘」
 打撃コーチの目が曇る。
「本当だよ。決まってるだろ」
 ひどいことを言ったと思う。けれど本音なのだ。自分の気持ちに嘘偽りのない百パーセントの本音を口にしたんだ。
 すると、またおかしな感覚が体を突き抜けた。さらなる開放感だ。自分の体が空洞になって、そこを風が吹きぬけたように心地よい。なんなんだこれは。この気持ちよさは。
「なにニヤニヤしてんのよ」と女が叫び、瓶に残っていたビールを頭へかけやがった。
 あああ、なにするんだ。びしょ濡れだ。畜生。目に入って痛いな。もう。
女を見ると目に涙を浮かべ、いつかのように仁王立ちしていた。手にビール瓶を持ってわなわな震えているさまが、阪神タイガースが優勝したときのビールかけのようだった。

随筆◇「―何故書くのか、後編―」  文=西沢洵子

父のことなら書ける。お別れが近いと知ってはいたが笑う日が多かったあの頃のことを書こう。
「父」が課題に出た時、一年も前から何度も書き直そうとしたけれども後が続かないエッセー「何故書くのか」を抱え、困っていた私は即座にそう思った。
 父の思い出なら書ける。と、軽く考えたのだけれどその考えは甘かった。いい加減な記憶で書いたものだから、文章サロンの中村久子先生に、時代背景、その頃の両親や私の様子等説明不足を次々指摘され、五回も加筆訂正してようやく「呆けるのならば父さん流」が出来上がった。
 私は文章サロンに入会して二年になるが、五回も提出し直した人を見たことがない。私はパソコンができないので、八才年上の姉に打ってもらっている。私も根気良く書き直したが、何も言わずに打ち直してくれた姉も根気が良い。
 一番根気が良いのは先生だった。書き直す度に長いエッセーになってしまい申し訳なかった。けれど、一度にまとめて指摘されたら私はきつとパニックを起し、又書けなくなっていただろう。
 戦争中のことは姉に聞いたり図書館で調べたりして、働き盛りの父や家族の様子を知り、室蘭の街が終戦間近に艦砲射撃を受け、破壊的な打撃を受けて悲惨な目に会っていたことを知った。
「呆けるのならば父さん流」の目途が付いた頃、どうにもまとまらなくて困っていた別のエッセー「何故書くのか」の内容を二つに分けて、全般部分だけを「私は嘘をついている?」にして書いてみた。こちらは三回でOKが出た。どちらのエッセーも気持だけでは書けない部分があり、調べてはっきり分かったことがあったので、途中で投げ出さないで良かった、と思った。
 ところでメインテーマの「何故書くのか」という難題が残っている。
 私は「正直になりたい」「頭の中を整理したい」とアンケート用紙の動機の欄に書いて文章サロンに入会したのだった。
 その頃私は、母、娘の赤ちゃん、姉、姑、と続けて亡くし、その度毎に複雑な感情に襲われており、姑の三回忌を過ぎてもまだ元気を出せないでいた。気分転換をしたくても日中は外出できない事情があり、家の中でなんとか気を紛らわせながら生活していた。
 けれども台所に行くと食にまつわるあれこれ、トイレに入ると排泄にまつわるあれこれが、次々に思い出されて気が休まらない。気分の良い日は「まるでパブロフの犬」と苦笑いするだけで済むのだが、そうでない日は思い出の中の情景と言葉が頭に浮び、終いには四十年も前からの古い失敗にまでつながって思い出してしまう。
 どうやら私は心の病に侵されていたらしい。医者の診断で「うつ病」とされた。
 私がもう少し賢かったらと自責の念にかられ、こんなことではいけないと気を取り直したかと思うと又後戻りして、頭の中で同じことを繰り返していた。この固まった頭の中を、畑を耕すように柔らかく鋤き返す方法は何かないだろうか。考えた結果辿り着いたのが「書く」ことだった。
 悩み続けている時、小学校三、四年生の頃に私の作文が誉められたことを幼馴染が思い出し「寿美ちゃんは文章書くの上手だったから何か書いてみたら?きっと何か良いことあると思うよ」と励ましてくれた。実はその作文は今パソコンを打っている姉が、上手に手を入れてくれたものだった。当時の私は子ども心に気が咎め、作文を上手にかけるようになりたい、と本気で願っていた。
 手紙一通書くのにも苦労しており、自信などは全く無いのに文章サロンの一員になった。イヤな思い出を書いて気を晴らしたいからでも、文章を上手に書けるようになりたいからでもなく、いまの自分には「書く刺激」が必要だと思ったからだった。
 文章サロンの一年目は子どもの頃の思い出を書くことが多く、楽しく遊んでいた日々を書く度に心が解放されて元気が出た。旧友が言う「何か良いこと」ってこのことかなあ、と思ったりした。
 けれどあまり代わり映えがしない子ども時代を過ごしたので、思い出の種は直に尽きてしまったし、周りを見渡してもこれといって書きたいものは無い。書く材料が無い人には先生が時々課題を出してくれるので頑張って書くのだが、堂々巡りの思考回路からは結論が出てこない。何とか形にしても、思っていることが伝わらないどころか違うように解釈される時もあることを経験した。ここにきてようやく、自分の気持ちをはっきりさせ上手に表現できるようになりたい、と思うようになった。
 入会して間もなく先生が「井上ひさし」の話をされたので、作文教室の本を買った。
 それを思い出し久し振りにもう一度読んでみたところ、今の私にぴったりの文章があった。
―――書いては考える、考えては書く。そうして一歩ずつ前へ進みながら、ある決断を自分で下していく。物を考える一番有効な方法、それは「書く」ことである―――
 苦労して書いているうちに、悟ったとまでは言えないが気持ちの整理がついて楽になった部分は確かにある。これこそ「何か良いこと」なのだろう。
 助け舟を出してくれた幼馴染に、姉に、先生に、ありがとうを言いたい。

随筆◇「仕事ってどんなもの」  文=小谷由美

「あなたにとって仕事ってどんなものかしら。たとえばボランティアや主婦の労働は仕事だと思う?」
 一昨年の八月、ハローワークでこう問いかけられた。相手は、ハローワークの職員。「早期就職支援制度」なるものを申し込み、一対一で就職相談をしていたときのことだ。
 当時の私は、六月に東京の会社をやめ、結婚のため札幌へ移ってきたところ。結婚しても仕事を続けたい。だから寿退社のつもりはなく、転職しようと思ってやめた。退職前の二月から何社か応募したけれど、一向に新しい仕事は決まらない。この日もある会社から書類選考だけで落とされ、かなりのショックを受けていた。
 相談員は五十歳前後の女性で、丸顔でおおらかな雰囲気の人だった。「あなたなら大丈夫」と励まされながら就職活動をしていたものの、思うようにならない現実。なんとかなるとたかをくくっていた自分の甘さに、気持ちが滅入る一方だった。どうしてどこも雇ってくれないのか。相談の予約をして会うたびに、だんだんつらくなり、自分のつらい思いを話すようになっていった。―はやく働きたいのに、うまくいかない。資格も取っていないから厳しい。何がしたいのかわからなくなってきた。正直女は損じゃないかと思う。結婚も子育ても仕事もしたい。でも夫の転勤や子育てで、仕事をやめざるを得ない状況になってしまう―
 自分の苦しい思いを聞いてもらううちに、思わず涙がこぼれた。すいません、と言う私に、相談員の女性は穏やかな声でこう言った。
 「あなたの場合、あせって就職先を見つけるよりも、じっくり考えて探したほうがいいかもしれないわね。」そして、冒頭の問いかけをされたのだ。
 私は、ボランティアも主婦も大切なことだろうけど、仕事とは思えない、報酬をもらうものが仕事だと思う、と答えた。彼女はそう、とだけ答えた。
 その後、免許もなかったのでとても迷ったが、大学時代に投げ出した「中学校の教員」という道を目指すことにした。一生続けられ、全国どこでも働けて、やりがいのある仕事、そう考えたら教員という結論に至ったのだ。
 教員を目指すなかで、自分の勉強と採用試験の対策のために、昨年の四月からボランティア活動を始めた。週に一回八時間程度、内容は、発達障害児の療育支援である。自閉症や注意欠陥多動性障害(AD/HD)など、発達障害のある幼児の成長発達を助けるプログラムをマンツーマンで行うのだ。長い間こうした支援に取り組んでいる団体があり、ボランティアの募集をしていたのを見て申し込んだ。
 このボランティア活動は、正直なところ思っていた以上に大変だった。朝九時ころから今日の打ち合わせ、午前中は子供たちと遊ぶ。ただ遊ぶのではなく、その子供に必要な能力を育てるためのプログラムを計画したり、その場で判断して実行するのだ。そして午後はその日の様子や今後の方針を考えるミーティング。家に帰ればその日の報告書をA4三枚程度書かなければならない。強制ではないものの、土曜日に研修もあった。
 そこで働くうちに、私の仕事に対する意識は変わっていった。他のボランティアスタッフは、大学生と主婦が半々くらいで、大学生は福祉関係の実習のために来ている人が多い。主婦の人は、もともと保育士や教員の経験がある人が多かった。なかでも主婦のスタッフの方は、みな元気で生き生きとしていた。なぜなのだろう、そう考えるうちに気がついた。それは、このボランティアの仕事に誇りと責任を持ってやっているからだ。子供の発達にかかわるのだから、軽い気持ちですむ仕事ではない。子供の安全を守る責任もある。療育については、これが正しい、と言い切れるものなどない。日々勉強し、担当の子供にあったやり方を考えていかなければならない。悩み、迷いも多い。だが子供の発達を支援しているという誇りと責任をもって取り組んでいる。だから生き生きして見える。本来なら、報酬をもらうべき働きだと思う。制度上、営利を出せるようなものではないので、ボランティアスタッフに頼らざるを得ないだけだ。
 仕事ってどんなもの?冒頭の問いに、今ならこう思う。報酬のもらえるものだけが仕事ではない。報酬が出ないけれど重要な仕事はたくさんある。主婦だって、ボランティアだって、誰かの役に立っていて、本人が誇りと責任を持って取り組んでいるのなら立派な仕事だ。もちろん暮らしていく上では、報酬が出ない仕事では厳しいのだけれど。
 ハローワークで泣いていたあの日から一年半。さんざん悩んで選んだ教員の道に、四月から進むことができる。誇りと責任を持って全うしたい。

随筆◇「チェンジ」  文=槇野ひよし

あまりに怒鳴られるものだから、とうとうぼくの意識は耐え切れなくなり、次の瞬間、ぽんっと、後ろにひっこんだ。
 驚いた。
 着ぐるみから覗くように、父の顔が見えた。怒りに震え、もだえ苦しむように身をくねらせる父は、ぼくに人差し指をつきつけ、おまえのようなもんは将来ろくなもんにならない、とまくし立てたが、なんだかその声がくぐもって聞こえ、ガラスの向こうにいるように感じた。
 肉体の奥にひっこんだ分、すべてがぼくから遠ざかったのだ。
 撮影中のカメラをほんの少し後ろに引いたように、世界がぼくから離れたのだ。
 ぼくは目の前の父に、自分の意識を合わせることができなくなっていた。さっきまでぼくの意識は肉体の外にあった。それは、両目と鼻を結んだ三角形の頂点に位置していた。それをぼくは感じることが出来た。いままで意識のことなんてちゃんと考えたことはなかったから、僕の指すそれが意識と呼べるのか、本当のことは知らないけれど、おまえの意識はどこにあるのだ、場所を指しなさいと言われたら、ぼくは鼻先から指一本ぶん上のところを指すだろう。ここです。ぼくの意識はここにあります、と答えるだろう。
 その意識が今は顔の中にある。
 たいやきに例えるなら、アンの中にある。
 それをぼくは感じることが出来る。意識でものを見て、意識で感じようと集中すると、着ぐるみの中の暗闇と、内包されてる温かさを感じるのだ。
 ぼくの意識は、ぼくの鼻の高さ+顔面の厚み+α、つまり約四センチ、内側にひっこんだことになる。小指一本分くらいの長さ。
 それがぼくにどんな変化をもたらしたかといえば、それ以来、自分をひっくるめて遠目に眺められるようになった、ということだ。
 父の怒りの最中に、意識がひっこんだため、手ごたえをかんじなくて尚更父は怒り出したけれど、そのときぼくはもう怯えてなかった。怖くなくなっていた。父の顔をけろっとして眺めていた。その顔に父が驚いた。
 こいつは馬鹿だ。なんにも分ってない。幾ら言っても効き目がないんだ。
 心配した祖母が仲裁に入ると、父はそう怒鳴った。
 「こいつは馬鹿だ。言葉がわからんのだ」といって父はぼくを弾くように体をぶつけて廊下に消えた。
 ぼくはおろおろする祖母へ、へらへらと笑い返した。
 十三歳の春だった。
 多分すごく心配させただろう。
 最初はひっこんだ感覚が強くて、度の合わない眼鏡で過ごすように、なにもかも違和感だらけだった。けれどそのうち慣れてくると、今までと違った角度からものを見れるようになっていた。
 みんなの意識が鼻面に貼りついてるように見えた。
 それ以来、ぼくは醒めた奴として周りから見られている。たしかにそうかもしれないけれど、ぼくの内側はけっこう熱いんだぜ。ひっこんでるだけなんだから。

随筆◇「呆けるのなら父さん流」  文=神田寿美子

随筆◇「マタニティヌード」  文=舟崎恵美

昨年出産した歌手のhitomiが、新しいアルバムのジャケットでマタニティヌードを披露して話題になった。ふっくらしたお腹や腰の曲線は美しく、いやらしい感じが全くしない。女性から見てもうっとりしてしまう。その影響なのか、最近では記念にヌード写真を撮る妊婦が増えているらしい。
 現在妊娠九ヶ月、日増しに大きくなるお腹を抱えながら、実は私も心が揺れている。
 結婚八年目、四十歳にして何とか授かった子供である。今回の妊娠が私にとっては奇跡的なこと、多分この子に兄弟を作ってあげることはもう出来ないだろう。そう思うと余計に今自分に起こっていることを残しておきたいという気持ちが沸いてくる。
 思えば「残す欲望」は、昔から人一倍強かった。それは自分が何ともなしに流されて無駄な日々を過ごしているように感じていたせいだと思う。写真や記録、資格や実績、何かを残してさえおけば、後で振り返った時に「これもやった」「あれもやった」、ただ食べて寝てきたのではないんだよ、そんな風に自分をなだめ、ホッとさせることができるのだ。
 しかし、ヌードである。
 三十三歳のhitomiのように美しい裸体では既に無い。スタジオへ出向き他人に撮っていただくのは、かなり抵抗がある。かといって「残す欲望」はおさまらない。辺見えみりのように自分で撮ろうかとも思ったが、そういう機材も無い。
 あぁ、どうしよう。
 そんなある朝、たまたまテレビでマタニティヌードの特集を放映していた。食パンをかじりながら夫が言った。
「あなたも、撮ればいいじゃない?」
「えっ、撮りたいけど、なんか恥かしくってさぁ」
「ふうぅん。じゃあ、俺が撮ってやるよ」
 夫に撮って貰うのも、なんだかちょっとという気もするが、何も残らないよりは断然いいし、他人より身内の方が気楽といえば気楽。
 よし。臨月になったら、最初で最後のヌードに挑戦だ!

随筆◇「生還者」  文=舟崎恵美

単独行の登山家が遭難死したら、人はその死を惜しみながらも「あの人は山が好きだったから本望だったろう」と登山家を送り出すことが出来る。故人との山のエピソードが贐(はなむけ)になり、それが送る側をも安らげてくれることだろう。
 しかし複数で山に望み、生還した者としなかった者に分かれたとしたら、遺族の心中は穏やかではない。生還者の家族とて公に喜ぶこともできない。苦境を乗り越えて来た生還者に「よく頑張ったね」と労いの言葉をかける人が果たしてどれくらい居るだろうか。
 旭岳中腹にある姿見の池に「愛の鐘」が建っている。ここを通るたび下がっている紐を振り回してカンカン鐘を鳴らしまくっていたのだが、これが遭難者を慰霊する塔だったとは昨年「凍れるいのち」を読むまで知らなかった。
 昭和三十七年十二月、北海道学芸大学函館分校山岳部十一名が大雪山で冬山合宿に臨み、その内十名が遭難死した。その大きな山岳事故のたった一人の生還者が四十五年ぶりに事故を語った本である。
 読み進めるうちに、何ともいえない重たいものが押し寄せてきた。
「もしかしたらこの生還者は、あの方ではないだろうか」
 十五年程前、当時全国で一番多く税金を払っている女性社長のもとで働いていた。扱っている商品は高級下着や化粧品など女性を対象としているものが多く、勤めているその会社のサロンで代理店の方に商品やシステムの説明をしていた。
 家具は全てイタリアのアンティークで、照明はアールデコ、壁にはルイ・イカールの絵が飾られ、私は自分では絶対買えないシャネルを制服に着ていた。会社の業績が急激に伸びていたせいか注目され、ビジネスになると捉えた男性も度々サロンに説明を聞きにきた。
 ある日、代理店の男性が昔の同級生N氏を連れてやって来た。
 五十代の厳ついN氏は、イタリア家具の優美な曲線とは対照的で、ショールームにはひどく浮いた存在であった。しかしコーヒーを飲んでいるひとときの内に、彼の纏っている重い落ち着きが部屋に浸透してくると、なんだかんだと話しているこっちの方が浮いているような気がしてきた。
「こいつね足の指全部無いんだよ。でもさ、スキーでパラリンピックにも出場して勝ったんだよ、すごいだろ」
「どうして足の指が無いのですか」とは聞けず「それはすごいですね」と彼の功績を伺った。
 私の拙い説明も、彼は真摯に聞いて契約を交わしてくださった。同級生に対する想いからだ。でもその想いは相手に引け目を感じさせるほど大袈裟ではなく、静かで控えめで優しい好意だった。それきりお会いすることがなかったが、彼の持つ独特な雰囲気が妙に心に残った。
 本は当時の事故がどういうものだったかから始まり、後半は重度の凍傷を負いながらもただ一人生還した男性が、重い十字架を背負いながら懸命に生きてきた四十五年を振り返っていた。
 生きてなんぼ。
 そう言うことは簡単だ。でももし私なら生還したことを悔やむに違いない。夫一人分さえも己に課して生きていく自信がない。ましてこの男性のように十人の十字架を背負うことなど到底考えられない。
 彼は生き伸び、生き続けた。仕事にもスポーツにもボランティアにも、常に全力で生きた。そうせざる得なかったのだと思う。
 N氏の纏ったものが何であるかを、私は初めて知った。

随筆◇「恋文」  文=澤澄子

コラム◇「見えないトロフィー」  文=槇野ひよし

一九二五年の全英オープン最終ラウンドを観戦したギャラリーは「目に見えないもの」を目撃することになる。
 優勝争いの只中にいる一人のアマチュアゴルファーが自らにペナルティを課すべく、競技委員を呼び、過失を申告したのだ。
 のちに球聖と謳われるボビージョーンズは当時二十三歳だった。
 彼はアドレスした際、ボールが僅かに動いた為、スコアに一打付加する旨を告げた。ギャラリーは彼の行為を「もったいない」と感じた。なぜなら彼のボールは膝まで隠れる深いラフの中にあり、その中で何が起きたかなんて誰にも判らなかったからだ。
 ギャラリーのざわめきは翌日のプレーオフで彼が負け、頂点に達した。あの申告がなければ彼は一打差で優勝していたのだ。喝采と溜息の混ざりあう複雑な感情がボビージョーンズを取り囲んだ。
 全英オープンだぞ、普通の大会じゃない、あいつは馬鹿だ、正直にも程がある、タイトルの価値を判ってないんだ、一生に一度手に入るかどうかの価値を!ギャラリーはしくじった若者の代わりに失ったものの価値を惜しんだ。
 大切なものは目に見えないもの(サン テグジュペリ)
 彼はルールを守ったに過ぎない。ルールは明文化されている。目に見えるものだ。彼が従ったものは彼の中にあるもうひとつの目である。それがボールの動くところを彼と一緒に見ていた。他人の目は誤魔化せても自分の内なる目は誤魔化しようがない。
 彼は次のようなコメントを発表した。
 「僕が泥棒をしなかったからといって褒めるのはやめて頂きたい。そんなことを言われて喜ぶ人などいないはずです」
 のちにあの日のギャラリーは「目にみえないなにか」を目撃したことに気づく。
 あの若者がとった行動の意味について、その勇気と決断について、そうして失わずにすんだ、最も価値のあるものについてである。

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